第3章
 『論理学研究』の1章及び2章では、論理学が規範学であると同時に技術学でもあり、それ自身を基礎付ける理論学を必要とすることが確認された。第三章以降では、この理論学が心理学に属するものであるかという問題、すなわち心理学主義の問題が論じられていくことになる。第三章はそれら一連の議論の導入として、反心理学主義の基本的な論証とその批判を整理している。それらの論証を以下にまとめる。
反心理学主義による論証とその批判
(1)事実と規範の区別による論証

 反心理学主義による第一の論証は、論理学の規範性を強調することにある。心理学は思考の法則がどうなっているかを究明するのに対し、論理学はその法則がどうあるべきかを究明する。従って、論理学は心理学とは異なる。しかし、規範的な法則、思考のあるべき法則も心的な現象であることには変わりないのだから、この論証は結局心理学主義によって批判されることになる。
(2)課題の相違による論証
 反心理学主義の第二の論証は、心理学との課題の相違を指摘することにある。心理学は心理的現象の原因や結果といった自然的法則を明らかにするのに対して、論理学は真偽のような論理自体に内在する論理的法則を明らかにするため、両者は異なる。確かに、心理学は真偽といった問題を論理的な問題としては考察しないが、そうした現象自体を扱わないわけではない。真偽の対立も心理学的に考察することは可能なのであって、実際それらは心理的に与えられる明証性と関連がある。従って、この場合も論理学は心理学という全体的な分野の一部に還元されることになる。
(3)基礎付けの循環による論証
 反心理学主義の第三の論証は、学問としての方法論に関連するものである。論理学はあらゆる事象の真偽の基準を提供する学問として、あらゆる学問の基礎に位置付けられる。従って、論理学的規則によって初めてその活動を行なうことのできる心理学が、逆にその論理学を基礎付けるというのは一種の循環になってしまう。そのため、論理学は学問そのものが成立する条件として、その上に成り立つ心理学からは独立している。しかし、この論証も心理学主義を満足させるものではない。なぜなら、論理学が学問そのものの条件であるなら、論理学という学問自体も、それを論究することは一種の循環になってしまうからである。フッサールはこの議論に付言して、心理学主義は論理法則に従って推論することと、論理法則から推論することを混同していると指摘している。
論理学の基礎付けに関わる学問
 これらの論証を一通り概観した後、フッサールは論理学に対する心理学の関係を認めるものの、それが最も本質的な土台を与えるものであるとは限らないと指摘し、そこに純粋論理学の可能性を見出している。
「ここでわれわれは直ちに一つの弱点に気づく。その論証によって証明されたのは、心理学が論理学の基づけに関与しているということだけであって、心理学のみがそれに寄与しているとも、また特に強力に寄与しているとも証明されてはいないのであり、心理学が論理学に、われわれが(十六節)で定義したような意味での本質的土台を与えるとは証明されていないのである。それとは別のある学問が、しかもことによると遙かに重要な仕方で論理学の基づけに寄与する可能性も開かれているのである。そしてここにこそ、反対派によれば自ずから限定された自己完結した学として、一切の心理学から独立して存在しうるとされるあの≪純粋論理学≫の占めるべき位置があるのであろう。」(p.79)

第4章
 4章でフッサールは最初に心理学の事実学としての性質を指摘し、そのことから生ずる心理学主義の矛盾について、以下の三点を批判している。
心理学主義の論証の難点
(1)心理学の曖昧性

 心理学に基づく法則は、個々の事実的な心的現象に依存しているため、必然的に曖昧な性質を持つ。しかし、論理学的な諸法則は誤ることのない精密性を持っている。
(2)心理学の精密性の主張
 第一の批判点を回避するため、心理学の曖昧さを否定する方途も、困難に遭遇する。なぜなら、心理学的な法則を定立するのは、個々の経験的事実からの帰納であって、アプリオリに洞察的に把握されるものではないからである。心理学を含め、個々の事実に基づく事実学が定立する法則は、新たな事実の発見によっていくらでも覆される。実際、天動説や万有引力といった過去には絶対的に正しいと考えられていた学説も、今では否定されているのである。それに対して、論理学的な法則は新たな事実の発見ということに左右されない、アプリオリな精密性を有している。
(3)論理的法則の事実的性質
 もし論理的な法則が心理的な法則であるとしたら、それは心的な実在を包含すると同時に、心的な現象の法則であるという二つの性質を持つことになる。しかし、これはフッサールによれば背理である。なぜなら、法則の理解や主張には確かに表象や判断といった心的働きが関わるが、それらの問題と法則の内容という問題は異なるからである。論理的法則には心的現象に関する主張は含まれていないのであって、その点で論理法則は心的な実在を含まない。従って、それは心的な現象に対する法則でもない。
心理学主義の混同
 以上の三つの批判の他に、フッサールは心理学主義における重要ないくつかの誤謬を指摘している。その一つが、心理学主義は判断内容としての法則と判断そのものを混同しているということである。フッサールは、論理学的法則も心理学的経験の中で、具体的直観によって認識されることは認めている。しかし、「すべての認識は≪経験と共に始まる≫、しかしそれだからといってすべてが経験から≪生ずる≫のではない。」(p.95)。心理学的法則は事実的な経験から、帰納によって生ずる。論理的法則も事実的な経験の内で認識されるが、それらの事実的経験はあくまで類例であって、法則は帰納ではなく洞察によって、直接認識されるのである。
 また、フッサールがここで論理学的真理を無時間性によって区別していることも重要である。
「しかし真理そのものに対して妥当する諸法則を事実法則と呼ぶのは不合理である。真理は事実ではない、すなわち時間的に規定されたものではない。もちろんある真理は<ある事物が存在する、ある状態が存立する、ある変化が起こる>などという意義をもちうる。しかし真理そのものは一切の時間性を超出しているのであり、真理に時間的存在を、生成または消滅を帰するのは無意味である。」(pp.96-97)