第1章
学問論としての論理学
 第一章では、学問の基礎付けについて論じられている。フッサールの『論理学研究』では、論理学は単なる論理学ではなく、学問一般を基礎付ける実用学として研究されているのである。学問の基礎付けについて、フッサールは第4節から芸術を例にして分かりやすく説明している。芸術家は自らの作品を直観的に作り上げるのであって、どのようにそれらを作ったのか、その原理を明確に意識しているわけではない。しかし、それは芸術だけでなく学問においても同様のことであり、たとえ数学のような厳密に見える学問でも、その研究者は自らの方法的原理について必ずしも明確な理解を有しているわけではない。そこで、これら学問の方法を基礎付けるための学科が必要となるのである。
 ここで注意したいのは、このような基礎付けの学科として形而上学を挙げていることである。しかし、フッサールによれば形而上学は事実的な領域しか扱わない。そのため、数や論理といった本質的な事象をも基礎付ける学問が別に必要とされるのである。
明証、基礎付け、その体系
 ある認識が確実に真であるためには、それに対応する明証がなければならない。しかし、その明証はごく限られた事象においてしか成立しない。基礎付けとは、そうした明証の拡張を意味している。また、フッサールは個々の基礎付けがあるだけではなく、それらが総体として体系をなしていることが学問論の条件であることを強調している。以下の引用は、この第1章の内容を象徴している。
「実際には<表象された事態を存立すると極め付ける明証>ないしは<それを存立しないと極め付ける不合理>は(蓋然性や非蓋然性についても同様であるが)総体的に見て非常に限定された一軍の原初的事態の場合にしか直接には成立しないのであり、無数の真なる命題が真理として把握されるのは、それらがなんらかの方法によって≪基礎づけ≫られる場合だけである。(中略)しかし一定の正常な相互関係が前提されているとすれば、われわれが確実な認識から出発して、志向された命題へ到達するなんらかの思考の道筋をたどる場合には、直ちにその両者が同時に成立するのである。」(p.35)
「そして、認識すなわち知識において<直接に明証的にな、したがって平凡な事柄>を超え出るために、種々の基礎づけが必要とされるという事情は、単に諸学ばかりではなく、諸学と共に学問論つまり論理学をも可能にし、必要にするのである。」(p.36)
規範学及び技術学としての論理学 
 これまでの議論を踏まえて、11節では論理学が規範学であると同時に技術学であると規定されることになる。論理学は諸々の学問があるべき規範を設定するという意味で規範学であると同時に、その規範を達成するための手段ともなるという意味で、技術学でもあるのである。
「真の学問、妥当な学問そのものに何が属しているか、還元すれば何が学問の理念を構成するか、を論理学は究明しょうとするのであり、しかもそれは、経験的に与えられている諸学が学問の理念に適合しているかどうか、またどこまでその理念に接近し、どの点でそれに違反しているかを、それによって測るためである。」 (p.45)

第2章
 第2章では、規範学や技術学、理論学といった学問上の位置付けをめぐって、論理学の特徴が論じられる。
論理学の技術学、規範学への還元という問題
 第一章では論理学が規範学であると同時に技術学であるとされたが、フッサールによれば、論理学はそれら二つの学に還元されるわけではない。論理学は古代ギリシャ時代、ソフィスト達による詭弁を克服するための手段として発展したものの、近代ではそうした技術としての論理学の性質が問題に付された。この問題をフッサールは、論理学の権利は実用的観点に還元されうるのかという問題として次のように捉え直す。
「換言すれば<固有の学科としての論理学の権利を基礎づけるのは実用的観点のみであって、理論的観点から見れば、論理学が諸認識に関して集めるものはすべて、一方ではその他の周知の諸学に、しかも主に心理学のうちに根源的な郷土権を要求すべき純粋理論的諸命題に基づく諸規則のうちに存立するのであろうか>ということが問われているのである。」(p.51)
もし論理学が単なる技術学であるとしたら、実質的には心理学に属する理論を、実用的な観点からまとめたものに過ぎなくなるだろう。
 また、論理学の技術学への還元を否定した論者達が、論理学の規範的性質を主張したことにも問題があった。
「ドゥロービッシュやベルクマンのように純粋論理学の固有の権利を擁護する傑出した闘志の側からも、この学科の規範的性格が論理学の概念に本質的に属するものとして主張されたという事情は少なからず混乱を助長してきた。反対派はこの点に明らかな不整合を、いや矛盾をすら認めたのである。規範かという概念にはなんらかの指導目的およびそれに付随する諸活動への関係が含まれていはいないであろうか?したがって規範学とは技術学と全く同じ物を意味するのではなかろうか。」(p.55)
論理学が、単なる技術に還元されない独自の規範を持っているとしても、そうした規範も技術が属するのと同じような特定の目的や活動に拠っているのではないだろうか。
技術学、規範学を支える理論学としての純粋論理学
 フッサールはこうした問題に関して、全ての規範学や技術学は、それらが依拠すべき理論学を必要とすることを証明しようとする。ある規範やそれを達成しようとする技術は確かに何らかの具体的な目的によって立てられることもあるが、それに還元されるわけではない。何らかの事実的な目的や行為に還元されない理論的な規範を、フッサールは軍人の命題を例にして次のように説明している。
「われわれは、誰も要求する者がおらず、また場合によっては要求を受ける者もいなくても、いっそう広い意味で要求ということを言うが、それと同じように誰かの願望ないし意向とは無関係にもしばしば<べし>と言うのである。われわれが<軍人は勇敢であるべし>と言うとしてもそれは、われわれもしくは他の誰かがそれを望むとか欲するとか、命令ないしは要求するということではない。むしろ一般に、すなわちどの軍人に関しても、それにふさわしい願望と要求が正当性を有するのである、とそう解せるであろう。ただし完全にこの通りになるとは限るまい。なぜならこの場合願望または要求のそのような評価は必ずしも実際に行なわれる必要はないからである。」(pp.59-60)
このように、規範は具体的な願望や要求に依存しない、それ自体で妥当する内容を有しているのであり、そうした内容を追求する理論学が規範学には必要となる。従って、論理学は規範学、技術学であるからといって、単なる応用学に過ぎないわけではなく、学問としての自身の内容を持っているのである。第3章以降では、この論理学の内容を追求する理論学が心理学であるか否かが、心理学主義の批判という形で論じられることになる。
シェーラー、フランクルとの関係
 フッサールが論理学的真理の独立性を、良し悪しといった倫理的カテゴリーを用いて論証していることは重要である。軍人の例もそうであるが、倫理学的命題について、フッサールはここで次のような分析も残している。
「善い悪いを論ずる場合、通常われわれは比較による価値評価によってより善いものと最善のもの、またはより悪いものと最悪のものという区別も行なっている。快楽が善いものであるとすれば、二つの快楽のうちではより強い快楽、もしくはより長く持続する快楽がより善い快楽である。」(p.63)
よい快楽とは、より強く、長く続く快楽であるという命題は、まさにシェーラーが記述していた命題でもある。『論理学研究』では論理学が主題であり、このような倫理学的分野への言及は少ないが、ここでフッサールが開いた倫理学への現象学的なアプローチの可能性を主題的に推し進めたのが、シェーラーだった。フランクルの意味論もこのシェーラーの哲学を基礎にしているため、ここの議論は間接的な関係を有している。フランクルは意味の客観性を主張するが、軍人の良し悪しが個々人の願望や要求に左右されないものであるのと同じように、生きる意味や生き方の良し悪しも、恣意的な個々の主観に関わらない一般性を持っているのである。『論理学研究』の後の章で行なわれる心理学主義批判は、このような一般性が、単に個別的な事実から帰納されるものではない、純粋な客観性であることを示すものである。