今回は、フランクルの『死と愛』第三章をみていく。ここはロゴセラピーと宗教の違いや、共通分母による技法が論じられている点で、重要な箇所となっている。

心理的告白と医学的指導
 フランクルは通常の心理療法とロゴセラピーの違いを改めて論じ、その関係を心理的告白と医学的指導という観点から説明する。通常の心理療法は心理的告白を促し、患者の情動のカタルシスや外在化を目指す。しかし、心理的告白は常に心理的症状に基づいているわけではなく、道徳的な洞察を求めて行われることもある。そうした場合には、ロゴセラピーが患者の抱える責任性の問題について、医学的指導を行う必要が出てくる。ロゴセラピーは医学的指導において、患者を心身的な問題から自由にするだけでなく、何らかの責任への自由を得させることを目指す。
「通常の心理療法は、すなわち狭義の心理療法は、人間を心理的および身体的抑制や苦悩「から自由」にし、自我圏を身体的なものに対して拡大することで満足するのである。それに対してロゴテラピーないし実存分析は人間を他の、より広汎な意味において自由にしようと欲するのである。それは自己発見「への自由」であり、ゲオルグ・ジンメルが「個的法則」と呼んだもの「への自由」である。」(p.263)
ロゴセラピーと宗教の違い 
 ロゴセラピーは単なる心理療法とは異なり、生きる意味や世界観の問題に介入する。そこで、ロゴセラピーは何らかの価値感を押しつけることになってしうまのではないか、という問題が出てくることになる。この問題は、ロゴセラピーは単に責任性を意識化するだけで、その具体的な内容は問わないという形で答えられる。特定の狭義や信仰を与える宗教とは、この点で区別されることになる。
「この意味において実存分析も、人間が何に対して責任を感じているか、たとえば神に対してか、良心に対してか、社会に対してか、またいかなる価値の実現化に対してか、またいかなる個人的使命の充足に対してか、いかなる具体的な生命の意義に対してか、という問いに対しては中立性を守っているのである。」(p.267)
このようににロゴセラピーは患者を責任性へ差し向けるだけで、その内容に関しては中立性を守る。しかし、生命に関わるような緊急時にはその限りではないとされている。
共通分母による比較
 フランクルは次のように書き、共通分母による比較とでも呼ぶべきある本質的な方法について説明する。
「しかし価値は何らかの意味で比較しえないものであり、決断は常に「選択」(シェーラー)に基づいてのみ可能であるのであるから、事情によっては或る人間をこの場合にたすけることが必要になるのである。」(p.268)
この訳文では選択という表現があるが、この箇所は新訳の方では先取と書かれている。フランクルの思想的基盤であるシェーラーの哲学では、先取と選択は全く別の認識作用なので、ここには非常に大きな問題が存在する。選択という語は、旧訳が誤訳しているのか、それとも旧訳の依拠する古い版と新訳の底本でフランクルが表現を変えているのか、原書が手元にないので分からない。しかし、文脈から推測すると、選択の方がしっくりくる。
 ここでフランクルが共通分母という表現で記述しているのは、患者が重視する価値に基づいて、物事を評価するという一つの技法である。例えば、足を失うということは、スポーツ選手にとってはその目的を完全に失わせてしまうが、ヴァイオリン奏者にとっては、その目的を損なうものではない。自分が目指す価値を分母として物事を評価することは、迷いから抜け出し、不幸を相対化することに役立つ。そしてこの技法は、道徳的価値を前提することによって普遍的に適用できるようになることも重要である。シェーラーの哲学では、先取が価値の認識であり、選択は価値を前提とした意識的な勘案であるため、こうした技法は選択という語で表現されるのが正しいように思われる。
心理療法上の諸注意
 最後には、心理療法一般に関して、いくつかの補足的な事柄が論じられる。まず、心理療法はセラピストの側の要因と、患者の要因に合わせて、柔軟になされなければならない。このことは後の著作で方程式として表されることになる。次に、治療には患者の主体的な努力が必要であり、とりわけ価値へ向っての道徳的な努力を励まさなければならない。さらに、心理療法は必ずしも原因療法であるわけではなく、身体的な症状が心理的な介入で軽減することもあれば、その逆もある。それは精神次元に介入するロゴセラピーにおいても同様である。そのため、心理療法は身体・心理・精神の総体を視野に入れて行われなければならない。精神次元の重要さを示す例として、フランクルの次の記述は非常に説得力のあるものになっている。
「外科医が或る肢の切断手術を行なった時、彼はすんでから手術用手袋を脱ぎすて、それで医師としての義務を果してしまったように思える。しかし患者が不具者として生き続けようとは思わないといって自殺してしまったら、外科的治療の実際の効果はどれだけ残っているだろうか。」(p.275)
また、最後の箇所では自律訓練法で有名なシュルツが批判されているが、これは近年有名なマインドフルネス認知療法などにも関係があると思われる。
「しかしわれわれの見解によればニルヴァナ療法は、医学的指導のように患者をたすけて彼の苦悩を内的な業績にまで形成し、このようにして態度価値を実現化するかわりに、患者が状態的なものの中に逸脱し、酩酊様なものへ沈むことを一層指示するのである。」(p.278)

文献
ヴィクトール・E・フランクル(1957)『死と愛』(霜山徳爾訳)みすず書房