精神分析と個人心理学の相補性
フランクルは最初、フロイトの精神分析と個人心理学の理論的限界を確認することから始める。フランクルによれば、両者はどちらも正しいながら限定された理論であり、お互いが補い合って初めて完全なものとなる。精神分析では抑圧に対する意識性が重視され、個人心理学では妥協に対する責任性が重視される。フランクルはこれを独自の仕方で、「意識(意識性存在)と責任(責任性存在)という対概念の存在論的連関性はしたがって他在としての存在が共存と継起という二つの可能な次元にまず分れることの中に基づいている。」(p.7)と特徴付けている。これは中々面白い見方で、常に他のものとの関係で機能するシニフィアンの理論を先取りしたものと見ることもできる。また、責任性を継起の関係として特徴付けていることも重要である。ここには時間的な観点が含まれているのであって、フロイトの無意識の無時間性と合わせて考える必要がある。
フランクルは精神病理学的、文化心理学的観点からも、精神分析と個人心理学の対比を論じていく。精神病理学的観点において、精神分析は内容的観点から、性を重視し過ぎたことが批判され、個人心理学は形式的観点から、症状をある目的に対する手段としてのみ捉えたことが批判される。文化心理学的観点においても、芸術的な創造や宗教的な体験を抑圧された性的内容や目的に対する手段として解釈することが批判される。次の一文はアドラーに対するフランクルの批判の最も本質的な点を表している。
「おそらくそれは厳しすぎる批判であろうが、ただ個人心理学はわれわれの見解によれば、それが至る所に妥当欲を見出しているにもかかわらず、次のことを見落しているように思えるのである。すなわち道徳的な妥当へ向っての努力というべきものも存し、且つ少なからざる人間が単なる覇気以上のより激しいものに駆られうること、すなわちいわば地上的な名誉では全く満たされず、何らかの形で自らを永遠化することを深く追い求める努力に駆られうるということである。」(p.10)
「すなわち身体的な段階へと意識的な把握の手を伸ばして行くばかりでなく、心的な段階を超えて、精神的なものの領域を根本的に自らにひき入れることが問題ではないであろうか。」(p.10)
ロゴセラピーによる補完の必要性
フランクルは精神分析と個人心理学に対するロゴセラピーによる補完の必要性を次のように表明する。
「前述の二つのカテゴリーで可能なカテゴリー的な観点の領域がすでに尽きてしまっているのか、それとも必然(因果性からの)と意欲(心的目的性に従っての)とにさらに当為という新しいカテゴリーが加わるべきなのかをわれわれは自らに問わねばならないのである。あるいは還元するならば"Causae"の胎たる過去と"fines"の国たる未来とに対して、本質的に無時間的な、超歴史的な価値の世界が附け加わるべきではないかという問題なのである。」(p.11)
ロゴセラピーは当為という新しいカテゴリーを提示する。この文で、当為が無時間的、超歴史的な価値の世界と言い換えられているのはかなり重要である。というのも、他の箇所ではフランクルは人を歴史的存在として見ることの重要性を主張してもいるからである。この問題は、ディルタイやフッサール、ハイデガーやデリダといった、歴史に関わる哲学的伝統にまで遡って、精査されなければならない。
また、心理療法の目的という観点から見た場合、精神分析は適応を、個人心理学は形成を、ロゴセラピーは充足のカテゴリーを提示する。フランクルは一人の医師を例にこの三つの観点の違いを説明している。その医師は貧しい環境を克服して適応し、医師という職業を得るために自分生活を形成していった。その結果、外面的にはその医師は豊かな生活を手に入れたが、その人の本当の関心は医学の特殊な専門領域にあった。その場合、その医師は自らの安定した生活や経歴を捨てて、あえて研究活動に専念することもあり得る。このような活動が内面的な充足を表している。
価値付けの必要性
これまでは既存の理論との関係で生きる意味の問題が扱われてきたが、次は実際の臨床場面での生きる意味の問題が論じられることになる。事実、どの臨床家も、実際の心理療法の場面で生きる意味の問題が表れてくることを知っている。しかし、そうした問題を何らかの心理学理論で説明することは有効な手段ではない。
「また、われわれが劣等感をその精神的苦悩の根源として患者に証明してやることができたとしても、また、われわれが患者のペシミスティックな人生観を何らかのあるコンプレックスに「帰せしめる」ことができると重い、それを彼に信じさせたとしても・・・現実にはわれわれは彼に何ら本質的なことを語っているのではない。またわれわれはそれによって彼の問題の中核にふれたわけでもない。その点では心理療法をせずに身体的な処置や処方箋を書く医師と何ら変るところはない。」(pp.16-17)
生きる意味の問題、つまり精神的問題を心理的方法で対処しようとするのは、精神的問題を身体的な方法で対処しようとするのと同じくらい間違っている。しかし、こうした間違いが医学的科学性の姿の下に行われているのである。精神的問題と心理的問題の区別を説明するに際して、次のフランクルの説明は分かりやすい。神経症の患者が2×2=4であると話しても、それは間違っているわけではない。例え患者が計算を間違っていたとしても、我々は験算によって正解を示すことができるのであって、心理的介入を必要としない。こうした例が用いられる背景には、実質的な価値が数学的な概念と同じように妥当性を持つ理念的対象として考えられているという事情もある。これはシェーラーの哲学的観点から見ても、筋の通った例になっている。
精神的な問題については、精神的な方法で対処しなければならない。つまり、生きる意味の問題を他の問題に還元せず、正面からそれについて論じ合うことが必要になる。
「われわれが必要とするものは、あるいはむしろ神経症の人間が要求してよいものは、彼が世界観的な考察においてもつであろうあらゆるものの内在批評なのである。われわれは彼の論議に対して反対論議をもってする然るべき誠実な戦いを敢えてしなければならない。」(p.18)
心理学主義という問題
精神、つまり生きる意味の問題は理論的には見逃されてきたし、臨床場面では他の問題に還元されがちである。とりわけそれを心理的な問題に還元する傾向が、心理学主義である。フランクルは終生この心理学主義を徹底的に批判し、精神的問題と心理的問題の区別の必要性を主張してきた。しかし、両者は区別されるものの、無関係であるわけではないということには注意する必要がある。
「以上のことを述べたからといって、精神的な創造が、心理学的に、また生物学的に、且つ更に社会学的に制約されているということはもとより言うまでもないことである。しかしそれは「制約されている」という意味においてであって、心理学的、生物学的、社会学的に「ひき起されている」という意味においてではない。」(p.22)
身体的、心理的問題は精神的な在り方を決定しないものの、影響は与え得る。また、ここで論じられている心理学主義は、哲学史上に現れる心理学主義と同一のものである。フッサールの現象学も、その始まりは心理学主義に対する批判にあった。
「ちょうど哲学史の内部において心理主義が論理主義によって排除され、批判的に克服されたと同様に、心理療法内部における心理主義もわれわれが・・・論理主義に相応じて・・・ロゴテラピーと呼びたいものによって克服されねばならない。」(p.24)
フランクルはこの見方をさらに広げ、19世紀から20世紀にかけて発展した自然科学によって明らかにされた人間の制約性の強調を挙げる。この制約性の強調の下、人間の本来の自由や価値が忘れられることになり、心理学主義と共に生物学主義や社会学主義が台頭することになった。20世紀初頭の実存哲学はこうした還元的傾向からの揺り戻しとして位置づけられている。
このような心理学主義に基づいたアプローチは、人間の業績や症状を何でも仮面と見なし、その裏を暴露しようとするものとして批判され、意味や価値、精神をそれとして認める謙虚さの必要性が主張されている。
文献
ヴィクトール・E・フランクル(1957)『死と愛』(霜山徳爾訳)みすず書房
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