今回の記事では、フランクルの『死と愛』第2章の生命の意味という節を読解していく。
意味の問い
生きる意味を問うということは、単なる病的な症候ではなく、人間であれば誰でも直面し得る問いである。人間と同じように社会や組織を持つ動物でも、自分の生の意味を問うことはない。従って、生きる意味を問うことができるということは、人間独自の本質であるということができる。
フランクルはここで人間を歴史的存在として特徴付けるが、ここでの歴史とは実質的な価値から生じる生きる意味の具体性、つまりある状況におけるある人にとっての意味の唯一性を意味している。つまり、ハイデガーが問題にするような意味での歴史性ではない。フランクルにおける具体的な生の意味は時間的綜合から生ずるものではないが、時間的広がりを持っている。そして、その観点から現在のみに基点を置く生き方が批判されている。「「現在的」存在とはシュトラウスによれば、あらゆる未来指向性を放棄することができると思っている人生への態度のことである。すなわちそれは過去にも基づかず、将来をも指さず、むしろ歴史なき純粋な現在に関係しようとする態度である。」(p.35)。現在的な態度は祝祭などの一時的なものであれば健常なものであるが、それが慢性的なものになると、日曜神経症を含む様々な問題となる。
生きる意味の問いは青年期によく現われるが、時期に関係なく、不幸な出来事を経験した人であれば誰でも問うことがある。さらに、生きる意味は生物学的な健康や、心理的問題においても重要な意義を持っている。うつ病の人でも生きる意味を肯定できるか否かが問われるのであり、フランクルは患者がその点をどう考えているかを明らかにする質問を紹介している。それは、自殺をしないという主張に対してなぜと問う方法であり、同じうつ病の人でもそれに答えられる人とそうでない人がいるのである。
全体的意味=超意味の留保
フランクルは人生、あるいは世界の客観的・全体的意味についての問いを留保する。この意味は超意味という名で扱われる。フランクルの超意味に対する主張の論点は主に三つに区別することができる。
一つ目は、超意味は認識できないということ。
「即ち本来われわれは常に或る部分事象の意味のみを尋ねうるのであって、世界事象の「目的」を当ことはできないのである。」(p.39)
二つ目は、超意味は否定することもできないということ。
「例え人間がこの点に於て例外的な地位を占め、世界公開的(weltoffen)であり、環境以上のものをもち、「世界を有している」としても、この彼の「世界」の彼岸に何らの「超世界」も存しないと誰が言えるであろうか。」(p.40)
三つ目は、超意味はもしそれを信じることができるなら、精神保健的な意義を持ち得るということである。
「超意味への信仰が・・・たとえ限界概念としてであれ、あるいは宗教的に摂理として理解されてであれ・・・著しい心理療法的、精神衛生的意義をもっていることは自ずと明らかである。」(p.41)
意味=快楽説の批判
フランクルは生きる意味とは快楽の獲得にあるという考えを厳しく批判する。ここには、人生では快よりも不快の方が多いという研究結果やキルケゴールの幸福の扉の比喩が引用されるが、この引用は後年までフランクルがよく使うものである。フランクルの意味=快楽説の批判は基本的にシェーラーの快楽説に基づいている。シェーラーは快楽は一つの価値と見なされて初めて努力の目標となるとし、人間の自然的な根本傾向として快楽の希求を想定するカント倫理学を批判している。また、シェーラーとは別にシュトラウスの現在的生活様式への言及もある。快楽を状態として捉える見方は、涅槃的安定ではなく責任へ向けられた緊張状態が重要であるという主張につながるように見えるが、これは深読みの可能性もある。
価値論
フランクルはシェーラーの哲学に基づいて価値論を論じている。フランクルにおける価値は超越的で客観的なものであり、先に言及されていた超意味と理論的に等価である。価値の理論は、超意味と具体的意味との関係を説明する。
まず、価値の本質直観を説明するために、簡単に現象学の展開をさらっておく。フッサールは、数学や論理学において扱われる理念的対象は、事実的な心理学的行為によって論証できるものではなく、それ自身直接与えられるものであることを明らかにした。これが本質直観である。しかし、本質は様々な契機に無作為に直観されるわけではなく、それ自身が直観される際のある規則を持っている。こうした本質の具体的な与えられ方を考察する学問が現象学である。
シェーラーはフッサールが数学や論理学において展開した現象学を価値論に適用し、理念的対象としての価値がどのように直観されるかを研究する実質的価値倫理学を展開した。シェーラーは価値の実質的な内容を現象学的な分析によって明らかにし、価値の形式のみを重視して実質的内容を捨象したカントを批判したのである。ここで重要なのは、価値は具体的に求められる財からは独立したものであるが、財を通して明らかにされるということである。
フランクルの価値論はフッサールからシェーラーに至るこのような思想的系譜の内にある。『死と愛』ではランプの存在や愛人の魅力の認識が本質直観の例として示されている。フランクルは、理念的対象としての価値は具体的な実在を通してしか明らかにできないという事態を、超意味から具体的な意味への移行として捉える。
「恐らく一般にあらゆる当為は人間に、彼が「ここで今」なす「べき」具体性においてあたえられているのであろう。そして絶対的な客観的な価値は具体的な義務になり、日々の要請と個人的な使命の中にあらわれてくるのである。この使命の背後に立つ価値はおそらく使命を通じてのみ指向されうるのである。あらゆる具体的な当為が帰せしめられるような全体性は具体的なものの視野に縛られている人間には決して可視的にならないといえるかもしれないのである。」(p.50)
価値(超意味)は具体的な使命(意味)になるが、全ての使命が価値を反映しているわけではない。具体的な使命には正しく価値を反映するものとそうではないものがあるのである。
「価値の世界はたしかに全部ではなくて或る視野から見られるものではある。しかしそれぞれの立場には唯一の正しい視野が相応じているのである。」(pp.50-51)
フッサール以後の現代哲学では、このようなフッサール・シェーラー・フランクルの思想的系譜とは明確に別の方向をとるものが主流になったということも付言しておく。フッサールやシェーラーにおける本質は実在的なものを通して与えられるものではあるが、実在的なものとは独立に存在する、客観的な理念的対象である。初期ハイデガーはいつでもどんな状況でも客観的に妥当する意味に、その都度の生の事実性に基づく遂行意味を対置させた。また、デリダは客観的な意味を確保するために純粋な現象(声)とそうでない現象が恣意的に区別されていることを批判し、現前的な独語によって保証される意味に、特権的な現象によって保証されることのない、絶えずその意味を拡散させていくエクリチュールを対置させた。デリダのこうした思想はロゴス(意味)中心主義批判として知られている。ロゴセラピーとロゴス中心主義批判のより詳しい関係については、近々学会にて発表することを予定している。
三つの価値説
価値には創造価値、体験価値、態度価値の三つがあり、どんな状況でもいずれかの意味を満たすことができるという、フランクルの三つの価値説は有名で、かつ分かりやすいものであるので、詳しい説明はいらないだろう。仕事の価値はその内容ではなく、それに対する向き合い方にあることや、体験価値としてコンサートの視聴体験、態度価値として最後のときにも医者への配慮を示した高潔な患者の例がここでは示されている。
三つの価値説も先程の価値に関する理論的位置づけがあって成り立っていることは重要である。価値は客観的で具体的な状況を超越したものであるからこそ、どんな状況でも意味をくみ出すことのできる源泉として機能する。
死の肯定に対する批判
患者は生の最後のときまで、価値を実現する機会を持っている。そのため、他人の都合で安楽死が実施されることには反対しなければならない。フランクルはどんな場合でも患者の生は尊重されなければならないことを力説するが、それは現代の我々からすると少し当り前過ぎるような印象を持つ。しかし、『死と愛』は世界人権宣言の発布よりも以前の第二次世界大戦直後、混沌とした時代に書かれたことを思えば、この主張は重大の意義を持っていたのだと考えられる。
自殺の批判
フランクルは他人の都合で命が奪われることだけでなく、人が自らその命を絶とうとすることにも断固として反対する。最初に決算自殺の問題が論じられ、次に生物、心理、社会、精神とそれぞれの次元と自殺との関係が扱われる。決算自殺とはもう自分の人生からは利益を見込めないと判断して行う自殺のことであるが、生が意味を持っているかは最後まで分からないことや、自殺するしかないと思われる場合にも、実際には他の解決方法があることを根拠に挙げて、フランクルはそれを否定している。また、犠牲や贖罪としての自殺についても、その理由の多くはルサンチマンであることや、態度価値を実現する機会を無くしてしまうことを根拠に、否定されている。次に、自殺の理由が病理学的症状に基づいている場合と、そうでない場合が論じられるが、ロゴセラピーの対応自体は両者で変わることはない。ここでロゴセラピーの方法について非常に重要なことが述べられているが、ことのついでのように言及されているので、見逃しやすい。
「ここで問題であるのは、むしろわれわれがあらゆる場合に自殺の無意味性と生命の無条件な意味性とを、生きるに倦んだ者に示す義務があるのを確認することである。それは内在批評と即自的な論駁とによってであり、すなわちロゴテラピーの方法によってである。」(p.61)
「結局この会話において自殺を是認しうるようなあらゆる論理的な偽の理由が、実存分析的に、ロゴテラピーの方法で反駁されてしまったのであった。」(p.62)
ここからは、ロゴセラピーの本質的な方法が認知的介入であることが分かる。そこで問題になっているのは論理的な問題であって、ロゴセラピーはそれを合理的に証明することによって介入する。内在批評というのは、生きる意味の問題をそれ以外の問題、例えば症状や社会問題に還元せず、正面から論じるという姿勢を意味している。こうした論駁の例として、ここでは感情や自由(~への自由)が問題となっているが、これらの問題に対するフランクルの考え方はシェーラーの哲学に基づいている。最後に、自殺の身体的、社会的な契機が論じられる。ここで強調されるのは、身体的、社会的な問題の全てを完璧に解決するということはそもそもできないということである。そしてだからこそ、そうした困難を抱えた人生に意味が必要となる。ここで、実存哲学と生の哲学との関係について述べられているが、この箇所はロゴセラピーの哲学的基盤を考える上で非常に重要である。「現在の実存哲学が・・・当時の生哲学の生命概念に対して・・・人間の実存を本質的に具体的なものとして、すなわち各人ごとのものとして明らかにしたのはその大きな功績であった。」(pp.66-67)と語るフランクルの見方は完全に正しい。しかし、フランクル自身の理論は具体的なものをドイツ観念論由来の神秘主義と実存哲学の折衷的な観点から捉えている。
ロゴセラピーの根本原理、責任性の意識化
最後のこの箇所では再度、生きる意味は常に具体的なものであることや、ロゴセラピーはそうした意味や責任を患者に自覚させなければならないことが論じられ、コペルニクス的転回や良心といったロゴセラピーにおける最も重要な概念が提示される。ここでは次のような主張が重要であるように思われる。
「もし患者が自分は生命の意味を知らず、彼の存在の独自な可能性は自分に閉じられていると主張するならば、われわれは次のように答えることができる。すなわち彼のまず最初になすべき使命は本来の使命を求め、独自で一回的な生命の意味を追っていくことのうちに存すると。」(p.67)
生きる意味を見つけられない人は、まず生きる意味を見つけることが生きる意味となる。そして、その都度の状況で最善の行為を選択し続けることは不可能であり、それは常に漸進的に近づいていくことしかできない。この場合、人生全体の意味ではなく、日常の具体的な意味ある行為を探すことから始めることが推奨されている。また、宗教的人間と神経症的人間が、責任に対する知覚能力という点で連続線上にあるようなものとして描かれている。精神次元において神経症的な人は、複数の責任のバランスがとれなかったり、責任を過度に絶対的に果たそうとする。それに対して、宗教的人間は責任、使命に対して「よい耳」を持っている。
文献
ヴィクトール・E・フランクル(1957)『死と愛』(霜山徳爾訳)みすず書房
意味の問い
生きる意味を問うということは、単なる病的な症候ではなく、人間であれば誰でも直面し得る問いである。人間と同じように社会や組織を持つ動物でも、自分の生の意味を問うことはない。従って、生きる意味を問うことができるということは、人間独自の本質であるということができる。
フランクルはここで人間を歴史的存在として特徴付けるが、ここでの歴史とは実質的な価値から生じる生きる意味の具体性、つまりある状況におけるある人にとっての意味の唯一性を意味している。つまり、ハイデガーが問題にするような意味での歴史性ではない。フランクルにおける具体的な生の意味は時間的綜合から生ずるものではないが、時間的広がりを持っている。そして、その観点から現在のみに基点を置く生き方が批判されている。「「現在的」存在とはシュトラウスによれば、あらゆる未来指向性を放棄することができると思っている人生への態度のことである。すなわちそれは過去にも基づかず、将来をも指さず、むしろ歴史なき純粋な現在に関係しようとする態度である。」(p.35)。現在的な態度は祝祭などの一時的なものであれば健常なものであるが、それが慢性的なものになると、日曜神経症を含む様々な問題となる。
生きる意味の問いは青年期によく現われるが、時期に関係なく、不幸な出来事を経験した人であれば誰でも問うことがある。さらに、生きる意味は生物学的な健康や、心理的問題においても重要な意義を持っている。うつ病の人でも生きる意味を肯定できるか否かが問われるのであり、フランクルは患者がその点をどう考えているかを明らかにする質問を紹介している。それは、自殺をしないという主張に対してなぜと問う方法であり、同じうつ病の人でもそれに答えられる人とそうでない人がいるのである。
全体的意味=超意味の留保
フランクルは人生、あるいは世界の客観的・全体的意味についての問いを留保する。この意味は超意味という名で扱われる。フランクルの超意味に対する主張の論点は主に三つに区別することができる。
一つ目は、超意味は認識できないということ。
「即ち本来われわれは常に或る部分事象の意味のみを尋ねうるのであって、世界事象の「目的」を当ことはできないのである。」(p.39)
二つ目は、超意味は否定することもできないということ。
「例え人間がこの点に於て例外的な地位を占め、世界公開的(weltoffen)であり、環境以上のものをもち、「世界を有している」としても、この彼の「世界」の彼岸に何らの「超世界」も存しないと誰が言えるであろうか。」(p.40)
三つ目は、超意味はもしそれを信じることができるなら、精神保健的な意義を持ち得るということである。
「超意味への信仰が・・・たとえ限界概念としてであれ、あるいは宗教的に摂理として理解されてであれ・・・著しい心理療法的、精神衛生的意義をもっていることは自ずと明らかである。」(p.41)
意味=快楽説の批判
フランクルは生きる意味とは快楽の獲得にあるという考えを厳しく批判する。ここには、人生では快よりも不快の方が多いという研究結果やキルケゴールの幸福の扉の比喩が引用されるが、この引用は後年までフランクルがよく使うものである。フランクルの意味=快楽説の批判は基本的にシェーラーの快楽説に基づいている。シェーラーは快楽は一つの価値と見なされて初めて努力の目標となるとし、人間の自然的な根本傾向として快楽の希求を想定するカント倫理学を批判している。また、シェーラーとは別にシュトラウスの現在的生活様式への言及もある。快楽を状態として捉える見方は、涅槃的安定ではなく責任へ向けられた緊張状態が重要であるという主張につながるように見えるが、これは深読みの可能性もある。
価値論
フランクルはシェーラーの哲学に基づいて価値論を論じている。フランクルにおける価値は超越的で客観的なものであり、先に言及されていた超意味と理論的に等価である。価値の理論は、超意味と具体的意味との関係を説明する。
まず、価値の本質直観を説明するために、簡単に現象学の展開をさらっておく。フッサールは、数学や論理学において扱われる理念的対象は、事実的な心理学的行為によって論証できるものではなく、それ自身直接与えられるものであることを明らかにした。これが本質直観である。しかし、本質は様々な契機に無作為に直観されるわけではなく、それ自身が直観される際のある規則を持っている。こうした本質の具体的な与えられ方を考察する学問が現象学である。
シェーラーはフッサールが数学や論理学において展開した現象学を価値論に適用し、理念的対象としての価値がどのように直観されるかを研究する実質的価値倫理学を展開した。シェーラーは価値の実質的な内容を現象学的な分析によって明らかにし、価値の形式のみを重視して実質的内容を捨象したカントを批判したのである。ここで重要なのは、価値は具体的に求められる財からは独立したものであるが、財を通して明らかにされるということである。
フランクルの価値論はフッサールからシェーラーに至るこのような思想的系譜の内にある。『死と愛』ではランプの存在や愛人の魅力の認識が本質直観の例として示されている。フランクルは、理念的対象としての価値は具体的な実在を通してしか明らかにできないという事態を、超意味から具体的な意味への移行として捉える。
「恐らく一般にあらゆる当為は人間に、彼が「ここで今」なす「べき」具体性においてあたえられているのであろう。そして絶対的な客観的な価値は具体的な義務になり、日々の要請と個人的な使命の中にあらわれてくるのである。この使命の背後に立つ価値はおそらく使命を通じてのみ指向されうるのである。あらゆる具体的な当為が帰せしめられるような全体性は具体的なものの視野に縛られている人間には決して可視的にならないといえるかもしれないのである。」(p.50)
価値(超意味)は具体的な使命(意味)になるが、全ての使命が価値を反映しているわけではない。具体的な使命には正しく価値を反映するものとそうではないものがあるのである。
「価値の世界はたしかに全部ではなくて或る視野から見られるものではある。しかしそれぞれの立場には唯一の正しい視野が相応じているのである。」(pp.50-51)
フッサール以後の現代哲学では、このようなフッサール・シェーラー・フランクルの思想的系譜とは明確に別の方向をとるものが主流になったということも付言しておく。フッサールやシェーラーにおける本質は実在的なものを通して与えられるものではあるが、実在的なものとは独立に存在する、客観的な理念的対象である。初期ハイデガーはいつでもどんな状況でも客観的に妥当する意味に、その都度の生の事実性に基づく遂行意味を対置させた。また、デリダは客観的な意味を確保するために純粋な現象(声)とそうでない現象が恣意的に区別されていることを批判し、現前的な独語によって保証される意味に、特権的な現象によって保証されることのない、絶えずその意味を拡散させていくエクリチュールを対置させた。デリダのこうした思想はロゴス(意味)中心主義批判として知られている。ロゴセラピーとロゴス中心主義批判のより詳しい関係については、近々学会にて発表することを予定している。
三つの価値説
価値には創造価値、体験価値、態度価値の三つがあり、どんな状況でもいずれかの意味を満たすことができるという、フランクルの三つの価値説は有名で、かつ分かりやすいものであるので、詳しい説明はいらないだろう。仕事の価値はその内容ではなく、それに対する向き合い方にあることや、体験価値としてコンサートの視聴体験、態度価値として最後のときにも医者への配慮を示した高潔な患者の例がここでは示されている。
三つの価値説も先程の価値に関する理論的位置づけがあって成り立っていることは重要である。価値は客観的で具体的な状況を超越したものであるからこそ、どんな状況でも意味をくみ出すことのできる源泉として機能する。
死の肯定に対する批判
患者は生の最後のときまで、価値を実現する機会を持っている。そのため、他人の都合で安楽死が実施されることには反対しなければならない。フランクルはどんな場合でも患者の生は尊重されなければならないことを力説するが、それは現代の我々からすると少し当り前過ぎるような印象を持つ。しかし、『死と愛』は世界人権宣言の発布よりも以前の第二次世界大戦直後、混沌とした時代に書かれたことを思えば、この主張は重大の意義を持っていたのだと考えられる。
自殺の批判
フランクルは他人の都合で命が奪われることだけでなく、人が自らその命を絶とうとすることにも断固として反対する。最初に決算自殺の問題が論じられ、次に生物、心理、社会、精神とそれぞれの次元と自殺との関係が扱われる。決算自殺とはもう自分の人生からは利益を見込めないと判断して行う自殺のことであるが、生が意味を持っているかは最後まで分からないことや、自殺するしかないと思われる場合にも、実際には他の解決方法があることを根拠に挙げて、フランクルはそれを否定している。また、犠牲や贖罪としての自殺についても、その理由の多くはルサンチマンであることや、態度価値を実現する機会を無くしてしまうことを根拠に、否定されている。次に、自殺の理由が病理学的症状に基づいている場合と、そうでない場合が論じられるが、ロゴセラピーの対応自体は両者で変わることはない。ここでロゴセラピーの方法について非常に重要なことが述べられているが、ことのついでのように言及されているので、見逃しやすい。
「ここで問題であるのは、むしろわれわれがあらゆる場合に自殺の無意味性と生命の無条件な意味性とを、生きるに倦んだ者に示す義務があるのを確認することである。それは内在批評と即自的な論駁とによってであり、すなわちロゴテラピーの方法によってである。」(p.61)
「結局この会話において自殺を是認しうるようなあらゆる論理的な偽の理由が、実存分析的に、ロゴテラピーの方法で反駁されてしまったのであった。」(p.62)
ここからは、ロゴセラピーの本質的な方法が認知的介入であることが分かる。そこで問題になっているのは論理的な問題であって、ロゴセラピーはそれを合理的に証明することによって介入する。内在批評というのは、生きる意味の問題をそれ以外の問題、例えば症状や社会問題に還元せず、正面から論じるという姿勢を意味している。こうした論駁の例として、ここでは感情や自由(~への自由)が問題となっているが、これらの問題に対するフランクルの考え方はシェーラーの哲学に基づいている。最後に、自殺の身体的、社会的な契機が論じられる。ここで強調されるのは、身体的、社会的な問題の全てを完璧に解決するということはそもそもできないということである。そしてだからこそ、そうした困難を抱えた人生に意味が必要となる。ここで、実存哲学と生の哲学との関係について述べられているが、この箇所はロゴセラピーの哲学的基盤を考える上で非常に重要である。「現在の実存哲学が・・・当時の生哲学の生命概念に対して・・・人間の実存を本質的に具体的なものとして、すなわち各人ごとのものとして明らかにしたのはその大きな功績であった。」(pp.66-67)と語るフランクルの見方は完全に正しい。しかし、フランクル自身の理論は具体的なものをドイツ観念論由来の神秘主義と実存哲学の折衷的な観点から捉えている。
ロゴセラピーの根本原理、責任性の意識化
最後のこの箇所では再度、生きる意味は常に具体的なものであることや、ロゴセラピーはそうした意味や責任を患者に自覚させなければならないことが論じられ、コペルニクス的転回や良心といったロゴセラピーにおける最も重要な概念が提示される。ここでは次のような主張が重要であるように思われる。
「もし患者が自分は生命の意味を知らず、彼の存在の独自な可能性は自分に閉じられていると主張するならば、われわれは次のように答えることができる。すなわち彼のまず最初になすべき使命は本来の使命を求め、独自で一回的な生命の意味を追っていくことのうちに存すると。」(p.67)
生きる意味を見つけられない人は、まず生きる意味を見つけることが生きる意味となる。そして、その都度の状況で最善の行為を選択し続けることは不可能であり、それは常に漸進的に近づいていくことしかできない。この場合、人生全体の意味ではなく、日常の具体的な意味ある行為を探すことから始めることが推奨されている。また、宗教的人間と神経症的人間が、責任に対する知覚能力という点で連続線上にあるようなものとして描かれている。精神次元において神経症的な人は、複数の責任のバランスがとれなかったり、責任を過度に絶対的に果たそうとする。それに対して、宗教的人間は責任、使命に対して「よい耳」を持っている。
文献
ヴィクトール・E・フランクル(1957)『死と愛』(霜山徳爾訳)みすず書房
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