ヒステリー研究の第一章はフロイトとブロイアーの共著であり、1893年に発表されていた論文の再録になっている。この記事はその論文「ヒステリー現象の心的メカニズムについて」を読解していく。この論文にはその後の精神分析のあらゆる発展にとって基本となる事柄が既に多く述べられており、2年後に出版された『ヒステリー研究』のその他の箇所を理解するためにも重要な箇所となっている。
『ヒステリー研究』における新たな発見:隠されたトラウマ性病因の発見とその治療
元々ヒステリーには、トラウマ的病因によって生じたことが明らかに見て取れるトラウマ性ヒステリーというものがあることが知られていた。『ヒステリー研究』における新たな発見の一つは、このようなトラウマ性以外のヒステリーにも、実は隠れたトラウマ的病因が作用していることを明らかにしたことにある。病因となった出来事は、患者にとって話すことが非常に不愉快であるか、そもそも想起することができない。それは催眠状態において問いかけるという新しい方法によって、初めて明らかになったのである。
『ヒステリー研究』のもう一つの新たな発見は、このような隠れたトラウマ的病因によって引き起こされているヒステリーの治療法が見つかったことにある。その治療法によって症状が消えたときのことは、次のように回想されている。
トラウマ的表象の摩減
我々が経験する大抵の出来事は時間が経つと同時に色あせていき、それと結びついていた情動的要素も減少していく。それではなぜ、ヒステリーの病因となった出来事は、いつまでも強力な力を保持しているのだろうか。
本来表象に付随する情動が摩減していく原因には二つのものがあげられている。
一つ目は、トラウマ的出来事に対して十分な反応がなされることにある。怒りには復讐が対応するように、この反応は何でもよいわけではない。しかしこの反応は言語、つまり話すことによって代替することができると述べられている。
二つ目は、トラウマ的表象が他の表象との連想の間で、修正を受けることにある。これはまさに後の認知療法に相当する原理で、外傷的現象で不安定になった心的状態は様々な表象を勘案した合理的思考によって再び統制される。
この二つの働きが組み合わさりながら、一般に忘却と呼ばれる現象が起きる。(ニーチェは忘却を一種の積極的働きとして考察したが、それとの関連でここの忘却の議論を研究するのは面白いだろう。)
トラウマ的表象の意識的記憶の連想からの排除
こうした忘却が妨げられるのは、当のトラウマ的表象が記憶から抜け落ちているからである。(従って、認知療法は精神分析の代わりを務めることはできない。なぜならトラウマ的表象は意識化できず、認知的介入を受け付けないからである。認知行動的な介入は当時から既に想定されていたが、その不可能性の上に精神分析は成り立ったのである。)
トラウマ的表象が記憶から抜け落ちる原因は、そのトラウマに対して十分な反応がなされなかったからである。従って、あるトラウマに対して十分な反応がなされないという事態は、忘却を妨げる原因であると同時に、意識化できなくなる原因でもある。トラウマ的表象は記憶から抜け落ちたからといって、忘却されたわけではないという点に注意する必要がある。この反応の不足には、さらに二つの原因が挙げられている。
一つ目は、トラウマ的内容に関する要因であり、適切な反応が見つからなかったり、道徳的葛藤から反応が抑え込まれたりする場合である。この原因が後の精神分析における病理学的理論の主な支柱になる。
二つ目は、トラウマを経験する意識の側の要因であり、ある出来事を経験したときの意識が白昼夢などによって、催眠のような異常な状態にあった場合である。これは次に疑似催眠状態として考察されるが、後の精神分析においては重視されなくなる仮説となる。
疑似催眠状態
トラウマ的表象が意識的な記憶の連想から抜け落ちる原因の一つは、その表象が異常な意識状態のときに成立したことにあった。また、そうした表象は催眠状態においてしか想起されることがない。これらのことから、疑似催眠状態と呼ばれる異常な意識状態が、ヒステリーの根本現象であると考えられることになる。この疑似催眠状態の特徴は、次のように述べられている。
ヒステリーの発作
これまで論じられていたのはヒステリーの持続症状についてであったが、ほぼ同様のことが発作現象に関しても当てはまる。ヒステリーの発作に関しては、以下のようなシャルコーの図式が参照されている。
「私たちには、周知のごとく、シャルコがヒステリー性の「大」発作に関して記述した図式が与えられている。それによれば、完全な発作は四段階に区分される。すなわち、(1)疑似癲癇の段階、(2)激しい運動の段階、(3)激情的態度の段階(幻覚段階)、(4)終局における譫妄段階の四段階である。」(p.27)
この内、第三段階における幻覚のような発作では、症状とトラウマ的思い出との関係が比較的明瞭に見てとることができる。しかし、そのような幻覚を伴わない、単純に運動的な現象からのみ成り立っている症状に関しても、催眠状態で意思疎通ができれば、そこにはトラウマ的思い出との関連があることを見出すことができるのである。
ここではさらに、持続症状と発作症状を統一的に理解する視点も示されている。持続症状においては、身体の神経支配の一部が疑似催眠状態における表象群に奪われている。それに対して発作症状では、このような神経支配が全面的に奪われることによって起こる。つまり、両者は疑似催眠状態における神経支配が通常の意識における神経支配にどの程度割り込んでくるかによって区別されるのである。しかし、神経支配が完全に奪われたとしても、意識そのものは残っていることがある。
「こうした場合でも周知の経験が示すとおり、正常な意識がつねに完全に抑圧されてしまうとは限らない。正常な意識には発作の心的行程についての情報は得られないが、しかし、発作の運動面での現象は知覚しうるのである。」(p.31)
治療としてのカタルシス法
最後の節は、これまでの議論を踏まえた上で、治療的原理について述べられている。
文献
ヨーゼフ・ブロイアー、ジークムント・フロイト(2004)『ヒステリー研究 上』(金関猛訳)筑摩書房
『ヒステリー研究』における新たな発見:隠されたトラウマ性病因の発見とその治療
元々ヒステリーには、トラウマ的病因によって生じたことが明らかに見て取れるトラウマ性ヒステリーというものがあることが知られていた。『ヒステリー研究』における新たな発見の一つは、このようなトラウマ性以外のヒステリーにも、実は隠れたトラウマ的病因が作用していることを明らかにしたことにある。病因となった出来事は、患者にとって話すことが非常に不愉快であるか、そもそも想起することができない。それは催眠状態において問いかけるという新しい方法によって、初めて明らかになったのである。
『ヒステリー研究』のもう一つの新たな発見は、このような隠れたトラウマ的病因によって引き起こされているヒステリーの治療法が見つかったことにある。その治療法によって症状が消えたときのことは、次のように回想されている。
「私たちはすなわち次のような発見をしたのである。私たち自身これには当初、大いに驚いた。つまり、誘因となる出来事に関する想い出を完全に明晰なかたちで喚び覚まし、その想い出に随伴する情動をも目覚めさせ、さらには患者が可能な限り詳細にその出来事について物語り、その情動に言葉を与えたとき、個々のヒステリー症状はただちに消失し、二度と回帰することはなかったのである。」(p.16)ここでは特異な時間的現象が指摘されている。過去のトラウマ的表象は、過去のものであるにも関わらず現在において症状を規定している。こうした表象は、それに付随する情動が失われたとき、病因として作用しなくなる。
トラウマ的表象の摩減
我々が経験する大抵の出来事は時間が経つと同時に色あせていき、それと結びついていた情動的要素も減少していく。それではなぜ、ヒステリーの病因となった出来事は、いつまでも強力な力を保持しているのだろうか。
本来表象に付随する情動が摩減していく原因には二つのものがあげられている。
一つ目は、トラウマ的出来事に対して十分な反応がなされることにある。怒りには復讐が対応するように、この反応は何でもよいわけではない。しかしこの反応は言語、つまり話すことによって代替することができると述べられている。
二つ目は、トラウマ的表象が他の表象との連想の間で、修正を受けることにある。これはまさに後の認知療法に相当する原理で、外傷的現象で不安定になった心的状態は様々な表象を勘案した合理的思考によって再び統制される。
この二つの働きが組み合わさりながら、一般に忘却と呼ばれる現象が起きる。(ニーチェは忘却を一種の積極的働きとして考察したが、それとの関連でここの忘却の議論を研究するのは面白いだろう。)
トラウマ的表象の意識的記憶の連想からの排除
こうした忘却が妨げられるのは、当のトラウマ的表象が記憶から抜け落ちているからである。(従って、認知療法は精神分析の代わりを務めることはできない。なぜならトラウマ的表象は意識化できず、認知的介入を受け付けないからである。認知行動的な介入は当時から既に想定されていたが、その不可能性の上に精神分析は成り立ったのである。)
トラウマ的表象が記憶から抜け落ちる原因は、そのトラウマに対して十分な反応がなされなかったからである。従って、あるトラウマに対して十分な反応がなされないという事態は、忘却を妨げる原因であると同時に、意識化できなくなる原因でもある。トラウマ的表象は記憶から抜け落ちたからといって、忘却されたわけではないという点に注意する必要がある。この反応の不足には、さらに二つの原因が挙げられている。
一つ目は、トラウマ的内容に関する要因であり、適切な反応が見つからなかったり、道徳的葛藤から反応が抑え込まれたりする場合である。この原因が後の精神分析における病理学的理論の主な支柱になる。
二つ目は、トラウマを経験する意識の側の要因であり、ある出来事を経験したときの意識が白昼夢などによって、催眠のような異常な状態にあった場合である。これは次に疑似催眠状態として考察されるが、後の精神分析においては重視されなくなる仮説となる。
疑似催眠状態
トラウマ的表象が意識的な記憶の連想から抜け落ちる原因の一つは、その表象が異常な意識状態のときに成立したことにあった。また、そうした表象は催眠状態においてしか想起されることがない。これらのことから、疑似催眠状態と呼ばれる異常な意識状態が、ヒステリーの根本現象であると考えられることになる。この疑似催眠状態の特徴は、次のように述べられている。
それぞれの疑似催眠状態には多種多様な差異があるが、それらの相互間で一致し、また催眠とも共通する点が一つだけある。それは、そうした状態で浮かび上がるのは高い強度を備えた表象であるにもかかわらずそれらの表象には他の意識内容との連想による交通は遮断されているという点だ。ただし、これらの疑似催眠状態の相互間での連想は可能である。そして、こうした連想を通じて、その表象内容が、高度なーどの程度まで高度であるかには差があるがー心的組織体に達することがありうる。(p.25)疑似催眠状態で成立した表象は高い強度を持っていたとしても意識的な連想に入っていくことができない。重要なのは、このような意識に参入できない表象が疑似催眠状態の内で連想を通じて増えていくことである。
ヒステリーの発作
これまで論じられていたのはヒステリーの持続症状についてであったが、ほぼ同様のことが発作現象に関しても当てはまる。ヒステリーの発作に関しては、以下のようなシャルコーの図式が参照されている。
「私たちには、周知のごとく、シャルコがヒステリー性の「大」発作に関して記述した図式が与えられている。それによれば、完全な発作は四段階に区分される。すなわち、(1)疑似癲癇の段階、(2)激しい運動の段階、(3)激情的態度の段階(幻覚段階)、(4)終局における譫妄段階の四段階である。」(p.27)
この内、第三段階における幻覚のような発作では、症状とトラウマ的思い出との関係が比較的明瞭に見てとることができる。しかし、そのような幻覚を伴わない、単純に運動的な現象からのみ成り立っている症状に関しても、催眠状態で意思疎通ができれば、そこにはトラウマ的思い出との関連があることを見出すことができるのである。
ここではさらに、持続症状と発作症状を統一的に理解する視点も示されている。持続症状においては、身体の神経支配の一部が疑似催眠状態における表象群に奪われている。それに対して発作症状では、このような神経支配が全面的に奪われることによって起こる。つまり、両者は疑似催眠状態における神経支配が通常の意識における神経支配にどの程度割り込んでくるかによって区別されるのである。しかし、神経支配が完全に奪われたとしても、意識そのものは残っていることがある。
「こうした場合でも周知の経験が示すとおり、正常な意識がつねに完全に抑圧されてしまうとは限らない。正常な意識には発作の心的行程についての情報は得られないが、しかし、発作の運動面での現象は知覚しうるのである。」(p.31)
治療としてのカタルシス法
最後の節は、これまでの議論を踏まえた上で、治療的原理について述べられている。
「私たちの方法は、もともと反応によって除去されなかった表象の作用を次のようにして解消する。すなわち、そうした表象と結びついた情動が動きがとれなくなっているとき、この方法は語ることを通じてその情動を流出しうるようにし、また他方、そうした表象を(軽い催眠のもとで)正常な意識に引き入れるか、あるいは意志の暗示を通じてその表象を解消することによってーこうしたことは記憶喪失をともなう夢遊状態において起こるーその表象に連想による修正を施すのである。」(p.33)ここで、この治療法は持続症状や発作として急性期の後に残る症状に対するもので、急性期のただ中にあるヒステリーには実施する意味がないと注意されている。この点で、精神分析におけるカタルシス法は、事件や事故、災害などで、被害にあった直後の人に気持ちをなるべく吐き出させるという心理的デブリーフィングとは区別される。災害時の心理的デブリーフィングは効果が無いことが現在では分かっており、サイコロジカルファーストエイドの観点から批判されているが、精神分析もそもそもの最初から、そのような形でカタルシスを促すことは否定していたのである。
文献
ヨーゼフ・ブロイアー、ジークムント・フロイト(2004)『ヒステリー研究 上』(金関猛訳)筑摩書房
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