今回の記事は、デリダ『エクリチュールと差異』所収の論文「「発生と構造」と現象学」(1959)を読解していく。

概要
 構造はそれ自身で完結する統一性を持った全体性であり、発生はそうした構造の起源と基盤である。現象学はまさにこの発生と構造の両方を扱う学問だといえる。なぜなら、現象学は構造的な本質を、具体的に発生する超越論的経験から記述するからである。デリダはこの論文で、現象学における構造主義的要請と発生論的要請の間にある問題を論究していく。
 重要なのは、デリダが構造には開いたものと閉じたものがあると述べていることである。開いた構造は、具体的な発生によって記述し切ることのできない余剰を常に含んでいる。その開きは意味の発生の可能性でもある。自分なりにまとめると、デリダは現象学の成立において、事実的経験には還元できない開いた構造が捉えられるようになったことを評価しているが、事実的経験に対応し、その発生をあらかじめ回収しておくような形而上学的真理が歴史の内に前提されるようになってしまったことに問題を見出している。

現象学以前
 発生と構造の対立は、フッサールの最初の著作である『算術の哲学』から既に含まれていた。一般的に、この著作はフッサールが心理学主義の影響下にあった時代の著作であると言われている。しかしデリダはそうした見方を一部批判し、当時からフッサールは構造(数)を具体的発生(心理学的行為)に還元する傾向に抵抗していたことを明らかにする。「当時ありがちだったその誘惑は、かなり曖昧な名称であるが「心理学主義」と呼ばれている。けれども、ひとつ以上の点においてフッサールは自分なりの距離を設置して、そして、事実上の発生論的構成を認識論上の有効性とみなすところまでは決して進まない。」(p.337)。デリダはその根拠をいくつか上げた後、しかし結局フッサールは構造を説明することに失敗したと結論している。その理由は、当時のフッサールが構造的対象と相関する志向性を心理学的な観点から捉えていたからである。
 『算術の哲学』においては、発生と共に構造を両立させることに失敗した。この失敗から現象学は始まることになる。その現象学の根本原理は、発生による能動と、構造から要請される受動の統一にある。現象学的還元は、こうした統一を純粋に取り出すために用意された方法であった。
「フッサールに必要だったのは、哲学的注意の新たな方位を開くことであり、具体的ではあるが経験的ではない志向性や、「構成的」である「超越論的経験」が見出されることだった。「構成的」とは、言い換えるなら、あらゆる志向性と同じく産出的であると同時に開示的であり、能動的であると同時に受動的だということである。能動性と受動性の起源的な統一、それらにとっての共通の根、これこそ非常に早い時期からフッサールにとっては意味の可能性そのものだったのである。」(p.339)

ディルタイ主義への批判
 デリダによれば、ディルタイ主義とゲシュタルト心理学とは、心理学主義とは反対に、構造を主題とする試みであった。しかし、フッサールはこれらの立場も、発生論的な見方から脱し切れておらず、構造を説明することに失敗していると批判することになる。この点でフッサールのディルタイへの態度は両義的であって、一方ではディルタイが個々の要素による説明に対して、全体的な構造への了解を精神科学の基礎としたことを肯定する。しかし他方で、フッサールはディルタイがそうした構造を歴史に基づいて考えたことを批判する。なぜなら構造的な真理が時代によって左右されるものだと、それは普遍的で絶対的な真理とは言えなくなるからである。
 「「発生と構造」と現象学」はデリダの中ではかなり初期の論文だが、この箇所では差延という概念が既に用いられている。特に、フッサールが批判するところのディルタイの世界観概念を説明する際に差延が出てくるということは注目しておく必要があるだろう。
「したがって世界観の理論をその理論固有の領域という厳格な境界内に連れ戻し、そこに還元しなければならない。この領域の輪郭を描き出すのは、知恵と知識との何がしかの差異であり、そして倫理的な予防、倫理的な性急さなのだ。この還元不能な差異は、理論的基礎づけの終わりのない差延に起因する。切迫する生は、実際的な答えが歴史的存在の領野で作り出されて絶対的な学に先んじることを望む。生には絶対的な学の結論を待つことなどできないのだ。このような予期のシステム、このように強引に引き出された答えの構造、これこそフッサールが世界観と呼ぶものである。」(p.344)

前期現象学
 『算術の哲学』の反省や、ディルタイ主義への批判で見てきたように、当時のフッサールは構造的な真理をいかにそれにふさわしい仕方で論究するかという問題意識を持っていた。従って、そこから発展し始めた現象学は当初、構造的な真理を静態的に記述する側面が強かった。この時期の著作である『イデーンⅠ』を、デリダは開か閉かという枠組みで捉える。開閉という概念は分かりにくいが、形相的な意味は、事実的な経験では汲み尽くせない余剰を常に含んでいることを、開という語で意味していると見ていいだろう。
1厳密と精密
 現象学において、本質には理念的本質と形態学的本質があり、それぞれの本質の特徴が精密と厳密と呼ばれる。形態学的本質は、具体的な内容を持った感性的な事物に見出される本質であり、理念的本質は、数学的概念のような純粋に形式的な本質である。デリダはこの精密と厳密に閉と開の区別を重ねている。すなわち、形態学的本質においては、本質は具体的な内容を持った感性的なものの内に見出されるが、感性的なものによって完全に合致するような仕方で説明することができない。それは具体的な体験に対する無限の開けを持っている。
2ノエシスーノエマ、ヒュレーーモルフェー
 デリダは『イデーンⅠ』における志向性の構造を、ノエシスーノエマとヒュレーーモルフェーの二つの対立によって論じている。
Aノエマ
 ノエマは思惟作用であるところのノエシスと相関する対象的意味であるが、ノエマは意識に直接直観された実的なものそのものではなく、そこから構成されるところの非実的な成分を含んだ意味である。デリダはこの点に注目し、意識に属するものでも世界に属するものでもないという特徴をノエマから取り出し、それを無始源性と呼んでいる。つまり、ノエマは特定の具体的始源によって閉じられることのない、自立した構造を有している。デリダはこのことから、特定の経験、形相的ー超越論的経験へと導く還元という操作が不要になるのではないかという問題提起をするが、それはすぐに否定される。「しかし、そうなると沈黙に陥ってしまいーしかもこれはいつだって起こりうることだー、そして、いずれにせよ厳密さを放棄することになったのではないだろうか。」(pp.349-350)。還元をしなければ構造を明らかにする発生が失われてしまう。ここでの沈黙という表現は、後の著作で扱われる声としての現象と対を成すものとして特別な重要性を持っている。
Bヒュレー
 ヒュレーはノエマとは反対に、意識に属する実的な部分であるが、志向的な対象ではない。ヒュレーは意識が実際に受け取ったり、受け取らなかったりするものとして、発生的なものである。しかしデリダはそこに開としての性質も見て取る。この箇所にはあまり説明がないが、おそらくそれは開けとしてのノエマの構成がヒュレーによる触発に依存しているからだろう。

ゲシュタルト主義への批判
 デリダは心理学が現象学的な観点を取り入れた場合、それが現象学の代わりになるのではないかという問題に言及している。この現象学的心理学の一つの例としてあげられているのが、ゲシュタルト心理学である。現象学と現象学的心理学の区別は、フッサール自身もかなり力を入れて論じてきたことで、例えば『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』では、第3部の半分がその問題に充てられている。デリダは現象学的心理学と超越論的現象学を分かつものとして、無があるという。この無は意味の全体性を提示すると同時に超越論的な領野を切り開き、超越論的還元を可能にする。この無は、最後に論じられることになる、現象学が前提する歴史の目的=ロゴスに相当する。

後期現象学(『イデーンⅠ』以後)
デリダは後期フッサールの発生的現象学を三つの観点から特徴付けている。
A論理学
 一つ目の特徴は、後期の現象学が、数学や論理学といった客観的諸概念だけではなく、相対的な文化に属する生活世界を対象とするようになったことである。相対的な意味が解明の対象にされるようになったことは、発生的なものが視野に入れられるようになったことの現れと言える。
Bエゴ論
 二つ目の特徴は、自我の発生が論じられるようになったことにある。現象学が還元によって到達する純粋自我の領域、諸々の実的な要素とその統一はそもそもどのように成立したのか、受動的綜合が扱われることになる。デリダはここに現象学の限界を見ているが、フッサールはあくまでもこうした問題を現象学において解決可能なものだと見なしていた。
C歴史ー目的論
 三つ目の特徴は、歴史的地盤の統一性としてロゴス、理性、目的が前提されることである。ロゴスは常に前提されているところのものであり、それは既にあったものが明らかになるという意味で、除覆という形で現れる。しかしそれは歴史の中で、あるいは意識の下に現前という形で現れなければならない。ロゴスのかかる自己の外在化の過程を、どう捉えるかというところに根本的な問題がある。次に引用する文は、後に展開されるロゴスー音声中心主義、現前の形而上学の批判を先取りする、この論文で最も重要な箇所だろう。

「ロゴスとは自己触発としての言葉である。すなわち、<自分が話すのを聞くこと>なのだ。ロゴスは自己の外に出ていくが、それは、自己が自己へ現前する「生き生きした現在」のなかで、自己において自己を取り戻すためなのである。<自分が話すのを聞くこと>はおのれの外へ出ていき、エクリチュールという迂路を経て、理性の歴史としておのれを構成する。それがこのようにおのれを差異化するのは、おのれをあらためて回収するためだ。『幾何学の起源』は、理性がこのように内世界的に記入されて露呈される必要性を記述している。こうした露呈は、対象の真理と理念性の構成にとっては不可欠なものであるが、それは記号という外部によって意味が脅かされるということでもある。」(p.357)
 ロゴスは音声として、現在において、自己を脱出し、意識に現れる。しかしロゴスが自己から抜け出すのは、それが意識の側で純粋に回収されるためである。しかしデリダは、こうした真理の現れがエクリチュールという形をとることで、その純粋さが損なわれる可能性を指摘している。現象学における還元とは、こうした汚染を除外する操作であり、そうすることによって守られる純粋なロゴスが存在するということを前提して初めて可能となる。『声と現象』や『グラマトロジーについて』では、こうした問題がより批判的に論じられていくことになる。

文献
ジャック・デリダ(2022)『エクリチュールと差異』(谷口博史訳)法政大学出版局