今回の記事は、シェーラー『倫理学における形式主義と実質的価値倫理学』における第一部Ⅰ「実質的価値倫理学と財倫理学ないしは目的倫理学」の3「目的と価値」の箇所を読解していく。
ここでは、意識的に対象化される目的に対して、努力に含まれているという形でしか現前しないところの目標が区別され、多くの重要な議論がなされている。意識的に対象化されないものをめぐるこれらの議論は、精神分析における無意識概念を始めとして、様々な心的問題にとっても非常に重要な箇所になっている。
カントは道徳を形式的原理によって基礎付け、具体的な諸目的をそこに含めなかった。シェーラーは目的を道徳から除外したという点でそれを評価するが、それによって実質的な価値も道徳から抜け落ちてしまったことを批判する。というのも、確かに実質的価値は目的から生ずることはないが、それは努力に目標という形で含まれているからである。「目的と価値」では、カントが実質的価値を目的に従属するものとするその関係が疑問に付されることになる。
努力と目標の前概念性
シェーラーは努力について、それが具体的な目的の内容を常に持っているわけではないことに注意する。このことを示す現象として、次のような状況が記述されている。
「努力発動のあの当初からの不安がまず私たちを規定して、私たちの状態を、それに付随してこの状態の客観的な諸条件、たとえば部屋のしめっぽい空気やたそがれどきの暗さを顧慮させ、こうしてそういう状態やその深いな性質に気づかせるような場合という一つの類型がある。」(p.85)
最初の不安は漠然とした方向性を持っているだけで、具体的な内容は持っていない。具体的な内容は、このような不安から逃れようとする離去努力によって、初めて現れるのである。この例の不安によって示される方向性が目標であり、しめっぽい空気やたそがれの暗さといった具体的に表象された内容が目的である。努力の目標は、表象されて初めて成立するのではなく、表象に先立って、努力それ自身のうちに内在している。
「私たちは自我中心から由来する中心的な意欲(あるいは願望)によって努力の目標を別に定立しなくても、合目標的な努力がその目標に向かっているのを現に見いだす。」(p.87)
目標の意識化
努力の価値方向としての目標が、表象による定立以前にあるものであるとしたら、それはどのような仕方で明らかになるのだろうか。シェーラーはそれが明らかになる場面を二つあげている。
「努力が或る価値に、すなわち努力の方向に合致するか、あるいは努力に矛盾する価値に行きあたる場合には、この方向は際立てられて私たちに明確かつ明晰に意識される。私たちは第一の場合には努力の「成就」を、そして第二の場合には努力の「方向」に対する「矛盾」を体験するが、そのことによって今や私たちにとってその「方向」もまた明確に際立てられる。」(p.86)
この説明は、ハイデガーの道具の故障によって世界が明らかになるという論述の先駆けになっていることが分かる。
形象成素の抑圧
目標は価値成素と形象成素の二つの側面を持っている。この二つの要素の第一の関係として、努力において形象成素は必ずしも必要ではないという事情がある。このこと自体はこれまで説明してきたことと同じだが、シェーラーはその説明として、形象成素が力動的に抑圧される場面を巧みに記述している。
「私たちが重要な仕事のさなかに、おそらくは或る人の顔つきから発するでもあろう、環境世界の一定の方向へ私たちを「引き寄せる」気配を感知するが、それには従わず、したがって努力目標の形象内容は生じない場合、あるいはすでに或る判然と感得しうる価値を目指す「方向」がその時々の構造に、つまり私たちの諸努力の「体系」に「はまりこまない」場合、すなわち努力が諸努力のそのつどの連関に適合せず、この連関の価値によって呼び起こされた「抵抗努力」によって「抑圧」され、こうしてその形象内容を展開できないようにされる場合、がそうである。」(p.88)
このようなその時々の努力によって抑圧され、無意識に留まるものがあるという記述は、『ヒステリー研究』におけるブロイラーのものとかなり類似している。我々は目の前の物事に集中するためには、大して重要でないことを一々気にしていては作業ができない。そして重要な事柄があれば、それは自然と意識に浮上してくるのであるが、重要であるにも関わらず意識に参入できない表象がある。これが精神分析的な意味での無意識である。このような精神分析的な無意識を記述するための基盤となる一般的な無意識の記述を、シェーラーとブロイラーは提供してくれている。
覚悟
価値成素と形象成素の第二の関係は、価値成素が形象成素を基づけるという関係である。このような関係を具体的に示す例としてシェーラーが記述するのが、覚悟しているという態度である。
「他方、形象内容はなお大いに動揺し、あるいは次々と変移しているのに、努力がその価値成素に基づいてすでに私たちの中心的自我による「同意」を得ているという場合がありうる。私たちはこの場合には、たとえば「義性を払おう」という、あるいは人々に対して「好意的」であろうという「覚悟」を体験するが、そのさいまだ私たちがどういう客体に対してそういうことをしようとしているのかという点は眼中になく、また義性や好意的行為の内容もまだ所有していない。」(p.88)
行為の対象やその内容が多様である、あるいは未規定であっても、そこには一つの価値によって基礎付けられているという統一性がある場合がある。世界内の諸関係が、自己固有の可能性から了解されるという現象も、こうした統一性の一つであって、シェーラーの覚悟の記述はハイデガーの覚悟性と内容的な関連があることは確認できる。しかしハイデガー自身がシェーラーのことをどこまで念頭に置いていたかは分からない。
価値に対する感情と快感の二次性
感情あるいは快感は二次的なものであり、努力の目標を直接規定することはない。快感は、それが一つの価値であると捉えられて初めて、努力の目標となる。「快感が努力の目標となる場合にも、このことは快感を価値あるいは反価値と見なす意向によって怒る。」(p.90)。この点で、カントの倫理学は批判されることになる。なぜなら、カントは人の自然的な行動原理を快感によって特徴付け、道徳を実践理性によって初めて達成されるものとして考えたからである。しかし実際は、快感は道徳的価値との関係で初めて人の行動原理となるのであって、道徳的原理は理性によって後から付け加わるものではない。従って、道徳性は快感に従う傾向性が理性に与えられる規範に従うかどうかではなく、傾向性がどのような価値に基づいているかによって規定される。
努力目標と価値の関係、価値感得におけるルサンチマン
シェーラーによれば、努力の目標はそのまま価値を表しているわけではない。なぜなら、価値は努力を主題とすることなしに感得することができるし、価値を感得していながら努力しないということもできるからである。さらには、努力が価値とは逆の方向に目標を立てるということもあり得る。これがシェーラーの言う意味でのルサンチマンであり、彼はそれを次のように説明している。
「たとえば私たちは、私たちがそのために積極的努力を行なう(あるいはより適切に言って、私たちがそのために「追求努力をなしうる」ということを体験する)一切の価値を過大評価し、他方、私たちがたしかになお感得しはするが、それを追求努力の目標とするには自分たちが無力だとわかっている価値を過小評価し、ないしは(或る場合には)錯誤過程を経て消極的価値へ感得し直すのを常とするーその過程は、財と価値についてのルサンチマン錯誤の或る必然的成素を成す過程である。」(p.92)
価値のあるプラスな財だと分かっているが、それが入手不可であるために、その財をマイナスの財として感得する。同じような例を、サルトルも『情緒論素描』において、魔術的投企を説明するために用いていた。おいしそうなりんごが木に成っていたが、手が届かないために、「あれは食べるには青すぎる」と言って去る。こういう例であった。従って、努力の目標は財として、何らかの価値によって基礎付けられているが、その目標は元の価値やその高さをそのまま表しているわけではない。
価値、目標、目的
努力の目標は価値によって基礎付けられているが、価値そのものではない。目標は、特定の価値実質に基づいて選択されたある内容である。目的はこのような目標を対象化し、表象したものである。後の議論(第一部ⅡB3)によれば、価値実質との関わりがアプリオリな先取であり、特定の価値実質に基づく財(目標)との関わりが経験的な先取であり、諸々の財の内で対象化される目的との関わりが選択である。このとき注意したいのが、努力における形象成素は、意欲による意識化、対象化によって初めて生ずるものではないということである。
「表象内容が初めて或る(同形の)努力をあれこれの努力(たとえば食物とか、かわきをいやすこととか、等々を求める努力)へと種別かするのではなくて、努力そのものが第一にその「方向」によって、第二に「目標」のうちなるその価値成素によって、第三にこの価値成素に基づく形象内容あるいは意義内容によって、規定され種別かされている。そして、これはすべて「表象」の作用の関与なしでのことである。」(p.95)。
このような形象内容は価値実質に基づいて生じる二次的なものである。
「だが努力の形象内容はその「一次的な」内容ではなくて、-以前に示したようにーその「二次的な」内容であって、これは「努力」と「表象」とがまだ区別されていない「或るものについての意識」一般の可能的な「諸内容」のうちから価値実質に応じて初めて選び出されたものである。」(p.96)。
意欲と願望
目標を表象化する作用には、意欲だけではなく願望もある。願望は目標をあるべきものとして表象しない。「目標内容の表象、および実在的であるべきという、二つの要素が「意志目的」のうちには現存していなくてはならない。二つの要素のうちの前者だけが現存している場合には、単なる「願望」が成り立つ(したがってこれもまた努力とは区別されて目標の表象を前提する)。」(p.97)
意欲の依存性
これまで論述してきたことから分かることだが、意欲は努力やそれに内在する価値に依存している。シェーラーは第一部Ⅰ3の最後でこのことを問題にしている。
「意志目的は或る選択作用、すなわち現前の諸努力のもろもろの価値目標に支えられて行なわれ、これらの実質間の先取作用によって基づけられている選択作用から生ずる。」(p.99)
意志的な選択作用は先取作用に基づいている。シェーラーは道徳の本質を選択ではなく先取に位置づけている。
「人人のあいだの最も深い道徳的な価値区別は彼らが何を選択し自分の目的として定立するかという点にあるどころか、この価値区別はむしろ、彼らがそれらのあいだでのみ選択し目的を定立することができるもろもろの価値実質、それゆえ彼らの目的定立のための可能的な作用空間を供与する価値実質のうちにーまたそれらの価値実質のあいだのすでに衝動的に(ないしは自動的に)与えられた構造関係のうちにー含まれている。」(p.100)
目的定立のための可能的な作用空間という語で、まさにハイデガーの世界が予示されているのを我々は見てとることができる。主題的に定立される目標に対して、その前提となる作用空間が非主題的に了解されているのである。このことから、次の二つの帰結が出てくる。
「こうして次に明らかなことは、意欲自身の可能的な道徳的価値はまず第一に、総じてどういうもろもろの価値実質が意欲の選択にとって努力のうちに現前しているか、また(客観的秩序における)どういう高さをそれらの価値実質は表わしているか、同様にどういう充実と種別化がそれらの価値実質のあいだに現前しているか、に依存しているということである。」(p.100)
第一の帰結は、意欲が努力の内に含まれる価値に依存するということである。
「だが第二に、意欲の可能的な道徳的価値は、どういう先取秩序において努力が中心的意欲の領域に歩み寄るかという点に依存している。」(p.101)
第二の帰結は、努力がどのように価値を先取しているか、つまり努力と価値の関係に、意欲は依存しているということである。
文献
マックス・シェーラー(1976)『シェーラー著作集 1』(吉沢伝三郎訳)白水社
ここでは、意識的に対象化される目的に対して、努力に含まれているという形でしか現前しないところの目標が区別され、多くの重要な議論がなされている。意識的に対象化されないものをめぐるこれらの議論は、精神分析における無意識概念を始めとして、様々な心的問題にとっても非常に重要な箇所になっている。
カントは道徳を形式的原理によって基礎付け、具体的な諸目的をそこに含めなかった。シェーラーは目的を道徳から除外したという点でそれを評価するが、それによって実質的な価値も道徳から抜け落ちてしまったことを批判する。というのも、確かに実質的価値は目的から生ずることはないが、それは努力に目標という形で含まれているからである。「目的と価値」では、カントが実質的価値を目的に従属するものとするその関係が疑問に付されることになる。
努力と目標の前概念性
シェーラーは努力について、それが具体的な目的の内容を常に持っているわけではないことに注意する。このことを示す現象として、次のような状況が記述されている。
「努力発動のあの当初からの不安がまず私たちを規定して、私たちの状態を、それに付随してこの状態の客観的な諸条件、たとえば部屋のしめっぽい空気やたそがれどきの暗さを顧慮させ、こうしてそういう状態やその深いな性質に気づかせるような場合という一つの類型がある。」(p.85)
最初の不安は漠然とした方向性を持っているだけで、具体的な内容は持っていない。具体的な内容は、このような不安から逃れようとする離去努力によって、初めて現れるのである。この例の不安によって示される方向性が目標であり、しめっぽい空気やたそがれの暗さといった具体的に表象された内容が目的である。努力の目標は、表象されて初めて成立するのではなく、表象に先立って、努力それ自身のうちに内在している。
「私たちは自我中心から由来する中心的な意欲(あるいは願望)によって努力の目標を別に定立しなくても、合目標的な努力がその目標に向かっているのを現に見いだす。」(p.87)
目標の意識化
努力の価値方向としての目標が、表象による定立以前にあるものであるとしたら、それはどのような仕方で明らかになるのだろうか。シェーラーはそれが明らかになる場面を二つあげている。
「努力が或る価値に、すなわち努力の方向に合致するか、あるいは努力に矛盾する価値に行きあたる場合には、この方向は際立てられて私たちに明確かつ明晰に意識される。私たちは第一の場合には努力の「成就」を、そして第二の場合には努力の「方向」に対する「矛盾」を体験するが、そのことによって今や私たちにとってその「方向」もまた明確に際立てられる。」(p.86)
この説明は、ハイデガーの道具の故障によって世界が明らかになるという論述の先駆けになっていることが分かる。
形象成素の抑圧
目標は価値成素と形象成素の二つの側面を持っている。この二つの要素の第一の関係として、努力において形象成素は必ずしも必要ではないという事情がある。このこと自体はこれまで説明してきたことと同じだが、シェーラーはその説明として、形象成素が力動的に抑圧される場面を巧みに記述している。
「私たちが重要な仕事のさなかに、おそらくは或る人の顔つきから発するでもあろう、環境世界の一定の方向へ私たちを「引き寄せる」気配を感知するが、それには従わず、したがって努力目標の形象内容は生じない場合、あるいはすでに或る判然と感得しうる価値を目指す「方向」がその時々の構造に、つまり私たちの諸努力の「体系」に「はまりこまない」場合、すなわち努力が諸努力のそのつどの連関に適合せず、この連関の価値によって呼び起こされた「抵抗努力」によって「抑圧」され、こうしてその形象内容を展開できないようにされる場合、がそうである。」(p.88)
このようなその時々の努力によって抑圧され、無意識に留まるものがあるという記述は、『ヒステリー研究』におけるブロイラーのものとかなり類似している。我々は目の前の物事に集中するためには、大して重要でないことを一々気にしていては作業ができない。そして重要な事柄があれば、それは自然と意識に浮上してくるのであるが、重要であるにも関わらず意識に参入できない表象がある。これが精神分析的な意味での無意識である。このような精神分析的な無意識を記述するための基盤となる一般的な無意識の記述を、シェーラーとブロイラーは提供してくれている。
覚悟
価値成素と形象成素の第二の関係は、価値成素が形象成素を基づけるという関係である。このような関係を具体的に示す例としてシェーラーが記述するのが、覚悟しているという態度である。
「他方、形象内容はなお大いに動揺し、あるいは次々と変移しているのに、努力がその価値成素に基づいてすでに私たちの中心的自我による「同意」を得ているという場合がありうる。私たちはこの場合には、たとえば「義性を払おう」という、あるいは人々に対して「好意的」であろうという「覚悟」を体験するが、そのさいまだ私たちがどういう客体に対してそういうことをしようとしているのかという点は眼中になく、また義性や好意的行為の内容もまだ所有していない。」(p.88)
行為の対象やその内容が多様である、あるいは未規定であっても、そこには一つの価値によって基礎付けられているという統一性がある場合がある。世界内の諸関係が、自己固有の可能性から了解されるという現象も、こうした統一性の一つであって、シェーラーの覚悟の記述はハイデガーの覚悟性と内容的な関連があることは確認できる。しかしハイデガー自身がシェーラーのことをどこまで念頭に置いていたかは分からない。
価値に対する感情と快感の二次性
感情あるいは快感は二次的なものであり、努力の目標を直接規定することはない。快感は、それが一つの価値であると捉えられて初めて、努力の目標となる。「快感が努力の目標となる場合にも、このことは快感を価値あるいは反価値と見なす意向によって怒る。」(p.90)。この点で、カントの倫理学は批判されることになる。なぜなら、カントは人の自然的な行動原理を快感によって特徴付け、道徳を実践理性によって初めて達成されるものとして考えたからである。しかし実際は、快感は道徳的価値との関係で初めて人の行動原理となるのであって、道徳的原理は理性によって後から付け加わるものではない。従って、道徳性は快感に従う傾向性が理性に与えられる規範に従うかどうかではなく、傾向性がどのような価値に基づいているかによって規定される。
努力目標と価値の関係、価値感得におけるルサンチマン
シェーラーによれば、努力の目標はそのまま価値を表しているわけではない。なぜなら、価値は努力を主題とすることなしに感得することができるし、価値を感得していながら努力しないということもできるからである。さらには、努力が価値とは逆の方向に目標を立てるということもあり得る。これがシェーラーの言う意味でのルサンチマンであり、彼はそれを次のように説明している。
「たとえば私たちは、私たちがそのために積極的努力を行なう(あるいはより適切に言って、私たちがそのために「追求努力をなしうる」ということを体験する)一切の価値を過大評価し、他方、私たちがたしかになお感得しはするが、それを追求努力の目標とするには自分たちが無力だとわかっている価値を過小評価し、ないしは(或る場合には)錯誤過程を経て消極的価値へ感得し直すのを常とするーその過程は、財と価値についてのルサンチマン錯誤の或る必然的成素を成す過程である。」(p.92)
価値のあるプラスな財だと分かっているが、それが入手不可であるために、その財をマイナスの財として感得する。同じような例を、サルトルも『情緒論素描』において、魔術的投企を説明するために用いていた。おいしそうなりんごが木に成っていたが、手が届かないために、「あれは食べるには青すぎる」と言って去る。こういう例であった。従って、努力の目標は財として、何らかの価値によって基礎付けられているが、その目標は元の価値やその高さをそのまま表しているわけではない。
価値、目標、目的
努力の目標は価値によって基礎付けられているが、価値そのものではない。目標は、特定の価値実質に基づいて選択されたある内容である。目的はこのような目標を対象化し、表象したものである。後の議論(第一部ⅡB3)によれば、価値実質との関わりがアプリオリな先取であり、特定の価値実質に基づく財(目標)との関わりが経験的な先取であり、諸々の財の内で対象化される目的との関わりが選択である。このとき注意したいのが、努力における形象成素は、意欲による意識化、対象化によって初めて生ずるものではないということである。
「表象内容が初めて或る(同形の)努力をあれこれの努力(たとえば食物とか、かわきをいやすこととか、等々を求める努力)へと種別かするのではなくて、努力そのものが第一にその「方向」によって、第二に「目標」のうちなるその価値成素によって、第三にこの価値成素に基づく形象内容あるいは意義内容によって、規定され種別かされている。そして、これはすべて「表象」の作用の関与なしでのことである。」(p.95)。
このような形象内容は価値実質に基づいて生じる二次的なものである。
「だが努力の形象内容はその「一次的な」内容ではなくて、-以前に示したようにーその「二次的な」内容であって、これは「努力」と「表象」とがまだ区別されていない「或るものについての意識」一般の可能的な「諸内容」のうちから価値実質に応じて初めて選び出されたものである。」(p.96)。
意欲と願望
目標を表象化する作用には、意欲だけではなく願望もある。願望は目標をあるべきものとして表象しない。「目標内容の表象、および実在的であるべきという、二つの要素が「意志目的」のうちには現存していなくてはならない。二つの要素のうちの前者だけが現存している場合には、単なる「願望」が成り立つ(したがってこれもまた努力とは区別されて目標の表象を前提する)。」(p.97)
意欲の依存性
これまで論述してきたことから分かることだが、意欲は努力やそれに内在する価値に依存している。シェーラーは第一部Ⅰ3の最後でこのことを問題にしている。
「意志目的は或る選択作用、すなわち現前の諸努力のもろもろの価値目標に支えられて行なわれ、これらの実質間の先取作用によって基づけられている選択作用から生ずる。」(p.99)
意志的な選択作用は先取作用に基づいている。シェーラーは道徳の本質を選択ではなく先取に位置づけている。
「人人のあいだの最も深い道徳的な価値区別は彼らが何を選択し自分の目的として定立するかという点にあるどころか、この価値区別はむしろ、彼らがそれらのあいだでのみ選択し目的を定立することができるもろもろの価値実質、それゆえ彼らの目的定立のための可能的な作用空間を供与する価値実質のうちにーまたそれらの価値実質のあいだのすでに衝動的に(ないしは自動的に)与えられた構造関係のうちにー含まれている。」(p.100)
目的定立のための可能的な作用空間という語で、まさにハイデガーの世界が予示されているのを我々は見てとることができる。主題的に定立される目標に対して、その前提となる作用空間が非主題的に了解されているのである。このことから、次の二つの帰結が出てくる。
「こうして次に明らかなことは、意欲自身の可能的な道徳的価値はまず第一に、総じてどういうもろもろの価値実質が意欲の選択にとって努力のうちに現前しているか、また(客観的秩序における)どういう高さをそれらの価値実質は表わしているか、同様にどういう充実と種別化がそれらの価値実質のあいだに現前しているか、に依存しているということである。」(p.100)
第一の帰結は、意欲が努力の内に含まれる価値に依存するということである。
「だが第二に、意欲の可能的な道徳的価値は、どういう先取秩序において努力が中心的意欲の領域に歩み寄るかという点に依存している。」(p.101)
第二の帰結は、努力がどのように価値を先取しているか、つまり努力と価値の関係に、意欲は依存しているということである。
文献
マックス・シェーラー(1976)『シェーラー著作集 1』(吉沢伝三郎訳)白水社
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