今回の記事では、『存在と無』の時間論における、過去についての議論を見ていく。
1、過去は存在するか、存在しないか
これまでの哲学では、過去に関しては二つの説があった。一つは、デカルトに代表される、過去は存在しないとする説であり、もう一つは、ベルクソンやフッサールに代表される、過去は存在するという説である。サルトルの過去論はこの二つの説を検討することから始まる。
一方では、過去は存在しないという説がある。過去は過ぎ去ったものを意味するのだから、存在しない。全ては現在にあるのであって、我々が過去だと考えているものも、脳の記憶部位に残る現在的な刻印が指し示しているものに過ぎない。しかしサルトルによれば、この考えではイメージと知覚や、イメージと想起の間にある区別が失われてしまう。人を最初に現在の内に閉じ込めて考えてしまうと、過去と関係する手段が失われてしまうことになる。
他方では、過去は存在するという説がある。この説に属する哲学者の一人がベルクソンであり、彼は過去を、現在における効力を失うだけで、それ自身は存在し続け、現在と相互浸透するものであると考えた。サルトルはベルクソンを高く評価しており、これらの点に関して肯定している。しかし、ベルクソンは、過去がどのように現在に働きかけるのかを説明できていない、という点で批判されることになる。(ベルクソンは『物質と記憶』で、記憶としての過去は、現在における有機体が外部の問題に効率的に対応するために動員されると、過去の役割を明確に規定していた。しかし、そこで有機体と外界との関わりは生物学的に考えられており、時間化による投企的構造は含まれていなかった。)フッサールは逆に、過去志向を通して、現在から過去への働きを説明しようとした。しかし、これもサルトルによれば、志向性が瞬間的なコギトとして考えられている限り、成功することはない。
過去に存在を認めない場合も、過去に存在を与える場合も、その矛盾は一つの問題に行き着くことになる。過去が内世界的な観点から考えられると、過去と現在の関係は絶たれ、存在しないものともはや存在しないものの区別、さらには否定一般が消え去ってしまう。重要なのは、内世界的な観点ではなく、その世界が生成する際の時間化の観点である。時間化において、過去は常に特定の現在にとっての過去である。
2、あったと言われる人は誰か
過去は常に特定の現在の過去であるということを確認するために、サルトルはあったという言葉の使われ方を分析する。例えば、ポールはかつて学生であった、という言い方がなされる。このときあったと言われるのはかつての学生であるポールではなく、学生であったことのある今現在のポールである。過去を現わす文法は、単に過去を示すのではなく、過去と現在のつながりを現わしているのである。つまり、あったという言い方で、過去を表現するには、特定の現在に立脚しなければならない。「完了形のもつ二つの時は、異なったありかたにおいてであるにせよ、いずれも現実的に存在する二つの存在を〔この四十代の男、その青年〕、しかも一方が他方であると同時にあったような二つの存在を、指示している。過去は何ものかの過去あるいは何びとかの過去として、特徴づけられる。」(p.318)
たとえ、かつて学生であったポールが既にいなくなっていた場合でも、それは特定の誰か、特定の現在にとっての過去である。その場合、その過去は私にとっての過去、あるいは、ポールのことを知り、記憶している他者にとっての過去である。もしこうした他者がいなければ、それはもはや過去であるということもできなくなる。「或る生者の具体的な過去の岸辺に移されず、その岸辺で救われえなかった死者たちは、過去であるのではない。彼らも、彼らの過去も、ともに消滅させられている。」(p.320)
従って、過去は常に今を生きる誰かによって所有されている。しかし、それは万年筆や車を持つような意味で所有されているわけではない。そうした物は、持っていることも持っていないこともあり得るものとして、所有者と外的関係にある。過去は特別な意味で所有されている。まずそれは、過去が現在を所有するのではなく、現在が過去を所有しているという一方的な関係である。過去はそれ自身では何ものでもなく、何かを所有することもできない。「過去はなるほど現在につきまとうかもしれないが、過去は現在であることができない。自分の過去であるのは、現在である、ということになる。」(p.321)。次に、現在は過去を所有することを強制されている。これは自分自身の過去であるべき存在として、他の箇所で繰り返し言及される対自の構造である。「事実、明らかに、≪一つの過去をもつ≫ということばは、所有者が受動的でありうるような所有のしかたを予想させることばであり、かかるものとして物質に適用される分には差しつかえないが、本来ならば、「自分自身の過去である」ということばによって置きかえられてしかるべきである。」(pp.322-323)
3、あったという言葉の意味
これまでの議論を引き継ぎ、ここであったという言葉の意味が主題的に論じられることになる。あったと言われる場合、私は過去であると同時にない。
まず、我々は自らの過去である。このことを示す具体的な事実として、我々は過去の行いについて賞賛や非難を受けるとき、それに無関心でいることはできない。しかし、人は生存している限り、完全に過去であるわけではない。人が過去に完全に取り込まれ、それと同一のものとなるのは、その死によってのみである。従って、人は生きている限り、単純に過去であるのではなく、過去であるべきという仕方で過去であるということになる。そして逆に、現在が過去に対して責任を有しているからこそ、現在は過去を我々にとって存在させることになる。このことを現象的に示すのが、恨みである。「いいかえれば、私が彼に対して彼の過去を責めるのは、単に彼が彼の過去であるかぎりにおいてではなく、彼が一瞬ごとに彼の過去をとりもどし、これを存在せしめるかぎりにおいて、つまり彼が彼の過去についての責任者であるかぎりにおいてである。」(p.327)
しかし他方では、我々は過去であったのであって、過去であるのではない。哲学上では、次のような考えがある。我々が賞賛や非難を受けるとき、そのとき賞賛や非難を受けているのは現在の我々ではなく、過去の我々である。なぜなら、時間の流れは刻一刻と流れており、ついさっきあったものも、今では既に過去になっているからである。しかし、サルトルは過去を時間の流れによって説明するこのような考えを否定する。「「私はもはやすでにそれであらぬ」という言いかたは不都合である。なぜなら、その場合の≪ある≫が≪即自的にある≫という意味ならば、私はかつて一度もそれであったことがないからである。」(p.333)。対自は常に現在的であって、即自としての過去とは異なった在り方をする。従って、我々は過去であることができない。しかし、それは現在法において過去であることができない、という意味であり、我々はあったという意味で、あるいは、あるべきという意味では過去である。このような過去とのつながりがあって初めて、過去の自分と現在の自分の同一性や差異、あるいは流れる時間一般のイメージが存在者として同定できるようになる。こうした過去との一種特殊な関係をより具体的にイメージすれば、我々は現在から過去へと流れていくのではなく、常に過去を抱えたまま、現在として生きていくのだということができるだろう。
以上の議論から、あったという言葉の意味が確定されることになる。
「このように私が私の存在を私の背後にたずさえているのは、私が一つの過去をもっているからではない。むしろ、過去は、まさに、私をして背後から、私のあるところのものであるように強いるかかる存在論的構造でしかない。それが、≪あった≫ということばの意味である。」(p.334)
我々は自らの過去と連続的なものとして存在せざるを得ない。しかしそれは、過去そのものとして生きるということではなく、現在において過去を引き受けて生きるということである。対自の全体的な構造の中に現在と過去は共に含まれ、統合されているが、両者の間には断絶がある。従って、我々は過去を引き受けなければならないといっても、その過去をどのように捉えるかは現在におけるその取り戻しの仕方によって左右される。「けれども、まさに対自は、自分の存在から自分を隔てているこの「存在の取り戻し」によってしか、自分の存在をひきうけることができない。(p.334)
4、対自が自分自身であったのはいかなるしかたでか
サルトルは最後に、過去に関するよくある誤解や、過去と価値の相違を問題にしている。
過去に関するよくある誤解というのは、過去に感じた恥ずかしさが、現在も恥ずかしさであるという、過去と現在の見かけの同一性である。しかし、過去に感じた感情は一つの対自によって経験されたものであっても、それは現在では即自的なものになっている。
また、過去は対自に含まれるところの即自であるという点で、価値と似た存在論的身分を持っている。しかし、過去は対自がそこから出発するところのものであるのに対して、価値はそこを目指すところのものとして、全く逆の性質を有している。
このような過去は、動機付けを規定することはできないが、それの前提となるものである。「過去というこの事実的存在は、それを変様させるために私の動機づけが自分とともに必ずたずさえていかなければならないものであり、それから逃れるために渡しの動機づけが保存しているものであり、それであらぬための自分の努力そのものにおいて、私の動機づけがそれであるべきであるところのものであり、それから出発して渡しの動機づけが自分を自分のあるところのものたらしめるその出発点であるからである。」(p.336)
1、過去は存在するか、存在しないか
これまでの哲学では、過去に関しては二つの説があった。一つは、デカルトに代表される、過去は存在しないとする説であり、もう一つは、ベルクソンやフッサールに代表される、過去は存在するという説である。サルトルの過去論はこの二つの説を検討することから始まる。
一方では、過去は存在しないという説がある。過去は過ぎ去ったものを意味するのだから、存在しない。全ては現在にあるのであって、我々が過去だと考えているものも、脳の記憶部位に残る現在的な刻印が指し示しているものに過ぎない。しかしサルトルによれば、この考えではイメージと知覚や、イメージと想起の間にある区別が失われてしまう。人を最初に現在の内に閉じ込めて考えてしまうと、過去と関係する手段が失われてしまうことになる。
他方では、過去は存在するという説がある。この説に属する哲学者の一人がベルクソンであり、彼は過去を、現在における効力を失うだけで、それ自身は存在し続け、現在と相互浸透するものであると考えた。サルトルはベルクソンを高く評価しており、これらの点に関して肯定している。しかし、ベルクソンは、過去がどのように現在に働きかけるのかを説明できていない、という点で批判されることになる。(ベルクソンは『物質と記憶』で、記憶としての過去は、現在における有機体が外部の問題に効率的に対応するために動員されると、過去の役割を明確に規定していた。しかし、そこで有機体と外界との関わりは生物学的に考えられており、時間化による投企的構造は含まれていなかった。)フッサールは逆に、過去志向を通して、現在から過去への働きを説明しようとした。しかし、これもサルトルによれば、志向性が瞬間的なコギトとして考えられている限り、成功することはない。
過去に存在を認めない場合も、過去に存在を与える場合も、その矛盾は一つの問題に行き着くことになる。過去が内世界的な観点から考えられると、過去と現在の関係は絶たれ、存在しないものともはや存在しないものの区別、さらには否定一般が消え去ってしまう。重要なのは、内世界的な観点ではなく、その世界が生成する際の時間化の観点である。時間化において、過去は常に特定の現在にとっての過去である。
2、あったと言われる人は誰か
過去は常に特定の現在の過去であるということを確認するために、サルトルはあったという言葉の使われ方を分析する。例えば、ポールはかつて学生であった、という言い方がなされる。このときあったと言われるのはかつての学生であるポールではなく、学生であったことのある今現在のポールである。過去を現わす文法は、単に過去を示すのではなく、過去と現在のつながりを現わしているのである。つまり、あったという言い方で、過去を表現するには、特定の現在に立脚しなければならない。「完了形のもつ二つの時は、異なったありかたにおいてであるにせよ、いずれも現実的に存在する二つの存在を〔この四十代の男、その青年〕、しかも一方が他方であると同時にあったような二つの存在を、指示している。過去は何ものかの過去あるいは何びとかの過去として、特徴づけられる。」(p.318)
たとえ、かつて学生であったポールが既にいなくなっていた場合でも、それは特定の誰か、特定の現在にとっての過去である。その場合、その過去は私にとっての過去、あるいは、ポールのことを知り、記憶している他者にとっての過去である。もしこうした他者がいなければ、それはもはや過去であるということもできなくなる。「或る生者の具体的な過去の岸辺に移されず、その岸辺で救われえなかった死者たちは、過去であるのではない。彼らも、彼らの過去も、ともに消滅させられている。」(p.320)
従って、過去は常に今を生きる誰かによって所有されている。しかし、それは万年筆や車を持つような意味で所有されているわけではない。そうした物は、持っていることも持っていないこともあり得るものとして、所有者と外的関係にある。過去は特別な意味で所有されている。まずそれは、過去が現在を所有するのではなく、現在が過去を所有しているという一方的な関係である。過去はそれ自身では何ものでもなく、何かを所有することもできない。「過去はなるほど現在につきまとうかもしれないが、過去は現在であることができない。自分の過去であるのは、現在である、ということになる。」(p.321)。次に、現在は過去を所有することを強制されている。これは自分自身の過去であるべき存在として、他の箇所で繰り返し言及される対自の構造である。「事実、明らかに、≪一つの過去をもつ≫ということばは、所有者が受動的でありうるような所有のしかたを予想させることばであり、かかるものとして物質に適用される分には差しつかえないが、本来ならば、「自分自身の過去である」ということばによって置きかえられてしかるべきである。」(pp.322-323)
3、あったという言葉の意味
これまでの議論を引き継ぎ、ここであったという言葉の意味が主題的に論じられることになる。あったと言われる場合、私は過去であると同時にない。
まず、我々は自らの過去である。このことを示す具体的な事実として、我々は過去の行いについて賞賛や非難を受けるとき、それに無関心でいることはできない。しかし、人は生存している限り、完全に過去であるわけではない。人が過去に完全に取り込まれ、それと同一のものとなるのは、その死によってのみである。従って、人は生きている限り、単純に過去であるのではなく、過去であるべきという仕方で過去であるということになる。そして逆に、現在が過去に対して責任を有しているからこそ、現在は過去を我々にとって存在させることになる。このことを現象的に示すのが、恨みである。「いいかえれば、私が彼に対して彼の過去を責めるのは、単に彼が彼の過去であるかぎりにおいてではなく、彼が一瞬ごとに彼の過去をとりもどし、これを存在せしめるかぎりにおいて、つまり彼が彼の過去についての責任者であるかぎりにおいてである。」(p.327)
しかし他方では、我々は過去であったのであって、過去であるのではない。哲学上では、次のような考えがある。我々が賞賛や非難を受けるとき、そのとき賞賛や非難を受けているのは現在の我々ではなく、過去の我々である。なぜなら、時間の流れは刻一刻と流れており、ついさっきあったものも、今では既に過去になっているからである。しかし、サルトルは過去を時間の流れによって説明するこのような考えを否定する。「「私はもはやすでにそれであらぬ」という言いかたは不都合である。なぜなら、その場合の≪ある≫が≪即自的にある≫という意味ならば、私はかつて一度もそれであったことがないからである。」(p.333)。対自は常に現在的であって、即自としての過去とは異なった在り方をする。従って、我々は過去であることができない。しかし、それは現在法において過去であることができない、という意味であり、我々はあったという意味で、あるいは、あるべきという意味では過去である。このような過去とのつながりがあって初めて、過去の自分と現在の自分の同一性や差異、あるいは流れる時間一般のイメージが存在者として同定できるようになる。こうした過去との一種特殊な関係をより具体的にイメージすれば、我々は現在から過去へと流れていくのではなく、常に過去を抱えたまま、現在として生きていくのだということができるだろう。
以上の議論から、あったという言葉の意味が確定されることになる。
「このように私が私の存在を私の背後にたずさえているのは、私が一つの過去をもっているからではない。むしろ、過去は、まさに、私をして背後から、私のあるところのものであるように強いるかかる存在論的構造でしかない。それが、≪あった≫ということばの意味である。」(p.334)
我々は自らの過去と連続的なものとして存在せざるを得ない。しかしそれは、過去そのものとして生きるということではなく、現在において過去を引き受けて生きるということである。対自の全体的な構造の中に現在と過去は共に含まれ、統合されているが、両者の間には断絶がある。従って、我々は過去を引き受けなければならないといっても、その過去をどのように捉えるかは現在におけるその取り戻しの仕方によって左右される。「けれども、まさに対自は、自分の存在から自分を隔てているこの「存在の取り戻し」によってしか、自分の存在をひきうけることができない。(p.334)
4、対自が自分自身であったのはいかなるしかたでか
サルトルは最後に、過去に関するよくある誤解や、過去と価値の相違を問題にしている。
過去に関するよくある誤解というのは、過去に感じた恥ずかしさが、現在も恥ずかしさであるという、過去と現在の見かけの同一性である。しかし、過去に感じた感情は一つの対自によって経験されたものであっても、それは現在では即自的なものになっている。
また、過去は対自に含まれるところの即自であるという点で、価値と似た存在論的身分を持っている。しかし、過去は対自がそこから出発するところのものであるのに対して、価値はそこを目指すところのものとして、全く逆の性質を有している。
このような過去は、動機付けを規定することはできないが、それの前提となるものである。「過去というこの事実的存在は、それを変様させるために私の動機づけが自分とともに必ずたずさえていかなければならないものであり、それから逃れるために渡しの動機づけが保存しているものであり、それであらぬための自分の努力そのものにおいて、私の動機づけがそれであるべきであるところのものであり、それから出発して渡しの動機づけが自分を自分のあるところのものたらしめるその出発点であるからである。」(p.336)
文献
ジャン=ポール・サルトル(2007)『存在と無 Ⅰ』(松浪信三郎訳)筑摩書房
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