今回の記事は、サルトル『存在と無』第2部の時間論における現在の議論を見ていく。

 サルトルは現在を現前によって特徴付ける。「現在は、過去との対立であるとともに、不在との対立でもある。」(p.341)。議論としては、最初に現前の主体と対象が問われ、その後、現前の意味とその非存在についての議論が続く。

・誰が現前しているのか?
「したがって、「・・・に対して現前的」である存在は、≪即自的な≫休息のうちにあることができない。」(p.343)
現前するものは対自である。しかし、対自が即自へ現前するからといって、即自が対自へ現前するということはできない。現前は即自全体を存在させる特別な内的関係を伴うもので、即自からはこのような関係は発生しない。単にボールが二つあるというような状況では、互いのボールが相互に現前しているということはできない。

・何への現前なのか?
「対自が現前であるのは、あらゆる即自存在に対してである。あるいはむしろ、こう言ってもいい。対自の現前は、即自存在という一つの全体を存在させるものである。」(pp.343-344)
対自は即自へ現前している。我々が現在と呼んでいるのは対自によって現前された即自である。

・現前とは何か?
「或る存在への現前ということには、われわれが内的きずなによってこの存在に結ばれているという意味がふくまれている。そうでなければ、現在と存在とのいかなる結びつきも、ありえないことになるであろう。」(p.346)
対自は現前によって、即自を存在させる。現前とは対自と即自との内的関係であって、即自はこの現前という関係を通してその存在が承認されることになる。

・現在の非存在は何を意味しているか?
「一般に誤って「現在」と呼ばれているものは、現在が何かに対して現前であるときの、その何かに当る存在である。現在を瞬間という形でとらえることは不可能である。なぜなら、瞬間は、現在が存在する時の間であるであろうからである。しかるに、現在は存在しない。現在は逃亡という形で自己を現在化するのである。」(pp.348-349)
対自は現在において、即自を存在させるが、そのとき現在は存在しない。なぜなら、現在は二重の意味で、逃亡するからである。第一に、現在は存在からの逃亡である。即自を無化的に超越するには、対自は充実した存在としての即自全体から距離をとり、一歩退いていなければならない。第二に、現在は過去から未来への逃亡である。対自の構造において現在それ自身は無であるが、その存在を未来と過去の内に持っている。そこで未来と過去は現在における対自と即自の内的関係である否定を根拠づける役割を持っている。おそらく、現在と存在との区別を考えることが重要だろう。存在は過去、現在、未来を含んだ時間性の元に成り立つが、現在は過去と未来を媒介する役割と同時に時間性と存在を媒介する役割を持っている。だからこそ、それは自由の根拠として存在に含まれていてはいけないのである。

文献
ジャン=ポール・サルトル(2007)『存在と無 Ⅰ』(松浪信三郎訳)筑摩書房