今回の記事では、サルトル『存在と無』第2部の時間論における未来についての議論を見ていく。
未来は、対自にとっての欠如であり、可能性であり、意味である。それは時計によって示されるような無機質的な時間ではなく、人が行うあらゆる企てや営みが向かうところの、生の一側面として論じられている。未来に関するサルトルの叙述はいまいちまとまりがなく、錯綜しているように見えるが、その中でも重要だと思われる点を抜き出して以下にまとめる。
1、非措定的な現れ
「それゆえ、通常、意識に対して開示されるものは、未来的な世界であるが、その場合、意識は、この未来的世界が、一つの意識にあらわれるであろうかぎりにおいて世界であり、来るべき一つの対自の現前によって未来として立てられるかぎりにおいて世界である、ということを何ら気にとめていない。」(p.357)
世界は、未来において実現されるべき自己との関係において現れるが、自己との関係は常に非措定的にしか意識されることがない。従って、世界は未来を前提しているにも関わらず、人は未来を世界の内にある事物や出来事から未来を考えてしまうことになる。また、未来は非反省的に、半透明的に意識されているのであって、全く意識されていないというわけではない。もしそれがサルトル的な意味で無意識になってしまうと、時間における未来の契機は完全に消失する。
2、時熟、未来と想像、過去の決定
「未来は、理想的な地点であって、そこでは、事実生(過去)と、対自(現在)と、その可能(将来)との、突然の無限な圧縮が、ついに、「自己」Soi を、対自のそれ自身における存在として出現させるであろう。」(p.359)
サルトルの未来に関する記述には、ハイデガーで言うところの時熟の働きが明確に見て取れる。この時熟の結果として生じる特徴が、未来と過去について述べられている。時熟において、未来は過去を踏まえた可能性として生じる。従って、現実と全く無関係に措定される想像と未来は異なるものである。また、未来や現在との関係における時熟によって、過去の意味も初めて定まる。従って、人は過去にあったところのものになるべきであるが、それはある特定の世界の内でのことである。
3、追いつきの不可能性
「未来は追いつかれえない。未来は、旧の未来として過去に滑り去る。」(p.360)
ある時点における未来は、その時点における現在と共に過去のものとなっていく。従って、我々がある行為の目的を成し遂げたとしても、その目的は過去の自分にとっての目的であって、成し遂げた時には既にもう過ぎ去っている。このような過ぎ去りは、先程書いたように、非措定的に、気づかない内に過ぎ去る。サルトルによれば、欠如としての未来を抱えるというのは対自の根本的な構造であって、それが完全に満たされるということはあり得ない。このことから、かつて抱いていた希望がいざ果たされると途端にあじけないものに見えることがあるが、サルトルはこれを「存在論的欺瞞」(p.361)と呼んでいる。
議論としてはこちらの方が先だが、サルトルは未来に関していくつかの消極的な規定も述べている。最後にこの点をまとめておく。
「まず注意したいと思うが、即自は未来であることができないし、未来の一部をふくむこともできない。」(p.349)
未来は欠如として自己に含まれる。つまり、対自に属する。
「まず、「将来は表象として存在する」というような考えは、棄てなければならない。」(p.350)
未来は措定的に、現前的な対象として見られると、それは現在的なものになってしまう。従って、未来とは非措定的にしか意識されることのない一種の独特な領野であるといえる。
「未来ということばを、いまだ存在しないであろう一つの≪今≫と解してはならない。」(p.353)
未来は今が成立する前提であって、様々な今のうちの一つではない。未来が欠如としてあるからこそ、その欠如を埋めるために克服するべき状況として、現在が現れてくるのである。
未来は、対自にとっての欠如であり、可能性であり、意味である。それは時計によって示されるような無機質的な時間ではなく、人が行うあらゆる企てや営みが向かうところの、生の一側面として論じられている。未来に関するサルトルの叙述はいまいちまとまりがなく、錯綜しているように見えるが、その中でも重要だと思われる点を抜き出して以下にまとめる。
1、非措定的な現れ
「それゆえ、通常、意識に対して開示されるものは、未来的な世界であるが、その場合、意識は、この未来的世界が、一つの意識にあらわれるであろうかぎりにおいて世界であり、来るべき一つの対自の現前によって未来として立てられるかぎりにおいて世界である、ということを何ら気にとめていない。」(p.357)
世界は、未来において実現されるべき自己との関係において現れるが、自己との関係は常に非措定的にしか意識されることがない。従って、世界は未来を前提しているにも関わらず、人は未来を世界の内にある事物や出来事から未来を考えてしまうことになる。また、未来は非反省的に、半透明的に意識されているのであって、全く意識されていないというわけではない。もしそれがサルトル的な意味で無意識になってしまうと、時間における未来の契機は完全に消失する。
2、時熟、未来と想像、過去の決定
「未来は、理想的な地点であって、そこでは、事実生(過去)と、対自(現在)と、その可能(将来)との、突然の無限な圧縮が、ついに、「自己」Soi を、対自のそれ自身における存在として出現させるであろう。」(p.359)
サルトルの未来に関する記述には、ハイデガーで言うところの時熟の働きが明確に見て取れる。この時熟の結果として生じる特徴が、未来と過去について述べられている。時熟において、未来は過去を踏まえた可能性として生じる。従って、現実と全く無関係に措定される想像と未来は異なるものである。また、未来や現在との関係における時熟によって、過去の意味も初めて定まる。従って、人は過去にあったところのものになるべきであるが、それはある特定の世界の内でのことである。
3、追いつきの不可能性
「未来は追いつかれえない。未来は、旧の未来として過去に滑り去る。」(p.360)
ある時点における未来は、その時点における現在と共に過去のものとなっていく。従って、我々がある行為の目的を成し遂げたとしても、その目的は過去の自分にとっての目的であって、成し遂げた時には既にもう過ぎ去っている。このような過ぎ去りは、先程書いたように、非措定的に、気づかない内に過ぎ去る。サルトルによれば、欠如としての未来を抱えるというのは対自の根本的な構造であって、それが完全に満たされるということはあり得ない。このことから、かつて抱いていた希望がいざ果たされると途端にあじけないものに見えることがあるが、サルトルはこれを「存在論的欺瞞」(p.361)と呼んでいる。
議論としてはこちらの方が先だが、サルトルは未来に関していくつかの消極的な規定も述べている。最後にこの点をまとめておく。
「まず注意したいと思うが、即自は未来であることができないし、未来の一部をふくむこともできない。」(p.349)
未来は欠如として自己に含まれる。つまり、対自に属する。
「まず、「将来は表象として存在する」というような考えは、棄てなければならない。」(p.350)
未来は措定的に、現前的な対象として見られると、それは現在的なものになってしまう。従って、未来とは非措定的にしか意識されることのない一種の独特な領野であるといえる。
「未来ということばを、いまだ存在しないであろう一つの≪今≫と解してはならない。」(p.353)
未来は今が成立する前提であって、様々な今のうちの一つではない。未来が欠如としてあるからこそ、その欠如を埋めるために克服するべき状況として、現在が現れてくるのである。
文献
ジャン=ポール・サルトル(2007)『存在と無 Ⅰ』(松浪信三郎訳)筑摩書房
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