今回の記事では、ラングレが生きる意味をどのように捉えていたのか、詳細に見ていく。
ラングレの実存分析が、主観的体験を捉えるために現象学的方法を導入し、それがPEAの基本的原理になっていることは、以前の記事で指摘した。しかし、主観的体験を重視するからといって、ラングレは生きる意味を主観的に恣意的に決めることのできるものと考えていたわけではない。実際ラングレが重視していたのは、主観と客観との間の交流(あるいは、現象学的に言えば、主観に現れる事象をそのまま受け取ること)であって、客観的事象を無視した主観的決断でも、主観的体験を無視した客観的知識の当てはめでもない。この点をラングレの記述に即してこれから見ていく。
ラングレは生きる意味を主観的体験からのみ説明することの矛盾を次のように説明している。
生きる意味の問題は、主観による思考や認知といった問題に単純に還元することはできない。意味は、「個人的確証という針の目」を通してのみ、受け入れられる。つまり、生きる意味に関する認知は、個人が感ずる感情や現実の知覚に基づいたものでなければならないのである。生きる意味は、主観による客観的対象の知覚に例えられる。知覚の内容は、知覚される対象が客観的に何であるかによって決まるが、それと同時にその対象を知覚する主観が立つ観点や視野の広さによっても決まる。意味とは、主観的であると同時に客観的なものでもあり、客観的な対象と関わる主観の観点と地平によって相対的なものである。誰もクライエントに生きる意味をそのまま与えることはできないのであって、クライエントとセラピストができることは、生きる意味における主観的な側面にアプローチすることのみである。
ここから、ラングレは実際には客観的意味の存在自体を否定しているわけではなく、それを主観の側からどのように受け取るかという点を重視しているということが分かる。地平を広げる作業は、PEA0と1における、内的現実と外的現実を現象学的に受け止める作業に、観点の選択はPEA2における内的位置づけの作業に対応するものと見なすことができるように、こうした生きる意味の捉え方は、臨床実践の進め方や技法にも直結していることが確認できる。
他の論文(Längle, 2011)では、また異なった観点から生きる意味が説明されている。ラングレはそこで動機概念に関する二つの立場、動機を人間に本来備わったものと見る立場と、外的な影響によって動機が成立すると見る立場の対立を問題にする。前者の立場には、優越感を目指す力への意志を前提するアドラーや、環境が好ましいものであれば人間は潜在的な成長力を自然に発揮していくというロジャーズに代表される人間性心理学が含まれ、意味への意志を前提するフランクルも、そこに位置することになる。しかし、ラングレはフランクルにおける意味への意志が人間に本来備わった自然的本性、つまり、ロゴセラピーでいうところの精神次元から直接結果するという見解に疑問を呈する。というのも、精神次元には自由が含まれているからである。ラングレによれば、自由は選択を迫るものでもある。そして、選択がなされるためには、そこで選択が為されるところの内容の知識と文脈の理解が必要不可欠となる。従って、意味への意志は、このような具体的内容の地平から生じ、主観による意志決定を経由して初めて、成立するのである。ラングレはこのような意志決定を行為の必須条件とし、行為を反応から区別している。
我々はここに、ラングレの実践的な技法体系がなぜ個人実存分析(Personal existential analysis, PEA)と呼ばれているのかが明瞭に示されているのを見ることができる。
これまで見てきたことをまとめてみるとこういえる。生きる意味は、主観における認知的な問題に還元することはできない。それは内的現実、外的現実を含んだ客観的事情によって支えられていなければならないのであって、フォーカシングでいうところの体験に基づいた概念でなければならないのである。しかし他方で、生きる意味はそうした客観的事情、体験から直接成立するものでもない。それは主観が受け取った客観的なものから、主体的な意志決定、選択を経て、初めて成立する。そうすると、生きる意味は主観と客観の間の関係から成立するのであって、その点で生きる意味を客観的なものとするフランクルの理論との矛盾は実はそれほど大きくないことになる。なぜなら、そこには客観的なものが主観の関係項として含まれているからである。
文献
ラングレの実存分析が、主観的体験を捉えるために現象学的方法を導入し、それがPEAの基本的原理になっていることは、以前の記事で指摘した。しかし、主観的体験を重視するからといって、ラングレは生きる意味を主観的に恣意的に決めることのできるものと考えていたわけではない。実際ラングレが重視していたのは、主観と客観との間の交流(あるいは、現象学的に言えば、主観に現れる事象をそのまま受け取ること)であって、客観的事象を無視した主観的決断でも、主観的体験を無視した客観的知識の当てはめでもない。この点をラングレの記述に即してこれから見ていく。
ラングレは生きる意味を主観的体験からのみ説明することの矛盾を次のように説明している。
「純粋に主観的な状態へ意味を帰属させると、それは比較的シンプルに認知的な再構成を受けると予想できる。また、患者に示唆される、理解可能で有用な新たな解釈であればどんなものでも、患者が抱える意味の欠如と苦しみの克服を助けるのに十分であることにもなる。しかし、これは経験と矛盾する。(中略)意味の欠如に苦しむ人々は、彼らの生の状況に対する新たな、よりよい意味付けをシンプルに採用しようとは容易に思えないということを、経験は示している。彼らが、より容易で苦痛のない意味の採用を通して、苦しみや空虚感を改善させることを妨げるものは何だろうか。これは、意味を純粋に主観的なものと捉える理解にとって、不測で特異な問題であるように見える。」(Längle, 1992)
生きる意味の問題は、主観による思考や認知といった問題に単純に還元することはできない。意味は、「個人的確証という針の目」を通してのみ、受け入れられる。つまり、生きる意味に関する認知は、個人が感ずる感情や現実の知覚に基づいたものでなければならないのである。生きる意味は、主観による客観的対象の知覚に例えられる。知覚の内容は、知覚される対象が客観的に何であるかによって決まるが、それと同時にその対象を知覚する主観が立つ観点や視野の広さによっても決まる。意味とは、主観的であると同時に客観的なものでもあり、客観的な対象と関わる主観の観点と地平によって相対的なものである。誰もクライエントに生きる意味をそのまま与えることはできないのであって、クライエントとセラピストができることは、生きる意味における主観的な側面にアプローチすることのみである。
「人は地平(horizon)の広さと観点の選択にのみ責任を有する。意味を発見するためにできることがそこで終るのは、意味が地平の上に現れるかどうかは、現実的な関係とそのロゴスにかかっているからである。」(Längle, 1992)
ここから、ラングレは実際には客観的意味の存在自体を否定しているわけではなく、それを主観の側からどのように受け取るかという点を重視しているということが分かる。地平を広げる作業は、PEA0と1における、内的現実と外的現実を現象学的に受け止める作業に、観点の選択はPEA2における内的位置づけの作業に対応するものと見なすことができるように、こうした生きる意味の捉え方は、臨床実践の進め方や技法にも直結していることが確認できる。
他の論文(Längle, 2011)では、また異なった観点から生きる意味が説明されている。ラングレはそこで動機概念に関する二つの立場、動機を人間に本来備わったものと見る立場と、外的な影響によって動機が成立すると見る立場の対立を問題にする。前者の立場には、優越感を目指す力への意志を前提するアドラーや、環境が好ましいものであれば人間は潜在的な成長力を自然に発揮していくというロジャーズに代表される人間性心理学が含まれ、意味への意志を前提するフランクルも、そこに位置することになる。しかし、ラングレはフランクルにおける意味への意志が人間に本来備わった自然的本性、つまり、ロゴセラピーでいうところの精神次元から直接結果するという見解に疑問を呈する。というのも、精神次元には自由が含まれているからである。ラングレによれば、自由は選択を迫るものでもある。そして、選択がなされるためには、そこで選択が為されるところの内容の知識と文脈の理解が必要不可欠となる。従って、意味への意志は、このような具体的内容の地平から生じ、主観による意志決定を経由して初めて、成立するのである。ラングレはこのような意志決定を行為の必須条件とし、行為を反応から区別している。
「動機的プロセスにおける人間のこの関わりを抜きにしては、動機の問題を扱っていることにはならない。代わりにそこにあるのは、一種の反射や反応であって、行為ではないのである。どのような行為も、決定によって定義され、それ故にそれは自発的で自由なものである。これがつまり、”個人的(personal)”ということである。」(Längle, 2011)
我々はここに、ラングレの実践的な技法体系がなぜ個人実存分析(Personal existential analysis, PEA)と呼ばれているのかが明瞭に示されているのを見ることができる。
これまで見てきたことをまとめてみるとこういえる。生きる意味は、主観における認知的な問題に還元することはできない。それは内的現実、外的現実を含んだ客観的事情によって支えられていなければならないのであって、フォーカシングでいうところの体験に基づいた概念でなければならないのである。しかし他方で、生きる意味はそうした客観的事情、体験から直接成立するものでもない。それは主観が受け取った客観的なものから、主体的な意志決定、選択を経て、初めて成立する。そうすると、生きる意味は主観と客観の間の関係から成立するのであって、その点で生きる意味を客観的なものとするフランクルの理論との矛盾は実はそれほど大きくないことになる。なぜなら、そこには客観的なものが主観の関係項として含まれているからである。
文献
Längle A. (1992) What Are We Looking for When We Search for Meaning?
In: Ultimate Reality and Meaning, Toronto vol 1, 4, 306-314
Längle A. (2011) The Existential Fundamental Motivations Structuring The Motivational Process. In: Leontiev DA (Ed) Motivation, Consciousness and Self-Regulation. Hauppauge, New York: Nova, pp. 27-42
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