これまで、ラングレの実存分析やウォンのMCCTといった現代のロゴセラピーについて記事を書いてきた。今回の記事では、それらの理論に基づいて、フランクルの古典的ロゴセラピーにおいて何が問題であったのかを明確にする。
まず、フランクルのロゴセラピーにおいてどのような問題点があったのかについて、まずはラングレやウォンの直接の言及を引用するところから始めよう。ラングレは、ウィーンで設立されたロゴセラピーの研究実践施設であるGLEが設立された当初の事情を書き残している。当時新しく設立されたGLEのメンバーは、訓練を含めたおよそ2年にわたるロゴセラピーの実践を経て、それまでの経験を率直に話し合ったという。その結果、ロゴセラピーは人間学的な地図として、カウンセリングにおいてとても役に立つものであるということに関しては、広い意見の一致があった。しかし、そこには全員が共通して遭遇した問題もあった。ラングレはそうした問題点を次のように述べている。「ロゴセラピーは現代的な意味での心理療法としてはほとんど使用することができない。それは他の心理療法を実施する際の人間学的な基盤以上のものではなかった。つまり、ロゴセラピーは本質的に、特定の技法を提供しなかった。」(Längle,2014)。「特に困難であったのは、私達が、生きる意味の欠乏に苦悩する人を援助するのに十分な技法を有していないという事実であった。」(Längle,2014)。また、初期の論文では次のようにも述べている。「ロゴセラピーは主に二つの方法で適用される。どちらの方法でも、クライエントは情報を受け取ることによって援助される。」(Längle,1990)。「しかし、クライエントはときに、自らが従うべきアドバイスを知っていても、困難に直面する。」(Längle,1990)。
他方でウォンは、ロゴセラピーの主な問題点を次のように述べている。「ロゴセラピーの主な弱点は、その原理が哲学的用語やメタファーに留まっていることにある。この曖昧さは科学的分析を退けてしまう。」(Wong,1998)。「もう一つのロゴセラピーへの批判は、それが価値や精神を強調し過ぎていることにある。治療セッションはしばしば、ロゴセラピーにおける価値や哲学を教えることで終ってしまう。」(Wong,1998)
一見して分かるように、両者とも元来のロゴセラピーに関して、それが哲学上の理論に留まっており、具体的な方法論、技法を備えていないということを問題視している。もちろん、フランクルのロゴセラピーには具体的な技法が全くないわけではない。例えば、ロゴセラピーには逆説志向や反省除去といった、必ず紹介される技法がある。しかしこれらの技法はどちらとも、不安神経症のような心因性の神経症に適用されるものであって、本来ロゴセラピーが主に関わる領域である精神因性の問題、つまり生きる意味の問題を解決するものではない。従って、ロゴセラピーが本来解決を目指すところの生きる意味の問題に介入するための方法論をほとんど有していないということは、その発展において重大な問題となっていたのである。
古典的ロゴセラピーが生きる意味の問題に対して具体的な技法を有していなかった最も主な理由は、フランクルが生きる意味を客観的なものとして考えていたことにあるといえる。生きる意味を客観的なものとして考えると、それは個々の主観から宙に浮いた神秘的なものになり、科学や心理療法において具体的に接近する術が失われてしまう。そのような客観的意味は、心理療法の中でクライエントがセラピストへ感じる信頼感や、共感され、理解されたという感覚など、そうした主観的体験いかんに関係なく、存在するとされているのである。(逆にだからこそ、第二次世界大戦中のユダヤ人強制収容所のような残酷な状況であっても、主観的に経験される悲惨な感情とは関係なく、生きる意味は常に存在するといえるのである。)
このような古典的ロゴセラピーの問題の克服を目指して、現代のロゴセラピーは生きる意味における主観的な側面に着目して発展してきたといえる。ラングレは存在、生活、独自性、意味からなる4動因論によって、ウォンは感情、認知、動機からなる3要素によって、生きる意味を説明し、そこから各種の技法を発展させていった。しかし、フランクルはこのような発展を手放しに許容することができなかった。1991年、フランクルはGLEの名誉会長の座を降り、その後ロゴセラピーの学派は右派と左派に分かれることになる。フランクルがGLEを辞任した三つの理由の一つは、そこでのロゴセラピーが主観的な体験と関わるための現象学的方法を導入したことであった。ウォンのMCCTに関しても、その発展が十数年早ければ、フランクルは否定的な見解を示しただろう。
文献
Längle A (1990) Existential Analysis Psychotherapy. In: The Internat. Forum Logotherapy, Berkeley, 13, 1, 17-19 - part 1
Längle A (2014) From Viktor Frankl’s Logotherapy to Existential Analytic psychotherapy. In: European Psychotherapy 12, 67-83
Wong, P. T. P. (1998). Meaning-centred counselling. In P. T. P. Wong, & P. Fry (Eds.), The human quest for meaning: A handbook of psychological research and clinical applications (pp. 395-435). Mahwah, NJ: Erlbaum.
一見して分かるように、両者とも元来のロゴセラピーに関して、それが哲学上の理論に留まっており、具体的な方法論、技法を備えていないということを問題視している。もちろん、フランクルのロゴセラピーには具体的な技法が全くないわけではない。例えば、ロゴセラピーには逆説志向や反省除去といった、必ず紹介される技法がある。しかしこれらの技法はどちらとも、不安神経症のような心因性の神経症に適用されるものであって、本来ロゴセラピーが主に関わる領域である精神因性の問題、つまり生きる意味の問題を解決するものではない。従って、ロゴセラピーが本来解決を目指すところの生きる意味の問題に介入するための方法論をほとんど有していないということは、その発展において重大な問題となっていたのである。
古典的ロゴセラピーが生きる意味の問題に対して具体的な技法を有していなかった最も主な理由は、フランクルが生きる意味を客観的なものとして考えていたことにあるといえる。生きる意味を客観的なものとして考えると、それは個々の主観から宙に浮いた神秘的なものになり、科学や心理療法において具体的に接近する術が失われてしまう。そのような客観的意味は、心理療法の中でクライエントがセラピストへ感じる信頼感や、共感され、理解されたという感覚など、そうした主観的体験いかんに関係なく、存在するとされているのである。(逆にだからこそ、第二次世界大戦中のユダヤ人強制収容所のような残酷な状況であっても、主観的に経験される悲惨な感情とは関係なく、生きる意味は常に存在するといえるのである。)
このような古典的ロゴセラピーの問題の克服を目指して、現代のロゴセラピーは生きる意味における主観的な側面に着目して発展してきたといえる。ラングレは存在、生活、独自性、意味からなる4動因論によって、ウォンは感情、認知、動機からなる3要素によって、生きる意味を説明し、そこから各種の技法を発展させていった。しかし、フランクルはこのような発展を手放しに許容することができなかった。1991年、フランクルはGLEの名誉会長の座を降り、その後ロゴセラピーの学派は右派と左派に分かれることになる。フランクルがGLEを辞任した三つの理由の一つは、そこでのロゴセラピーが主観的な体験と関わるための現象学的方法を導入したことであった。ウォンのMCCTに関しても、その発展が十数年早ければ、フランクルは否定的な見解を示しただろう。
文献
Längle A (1990) Existential Analysis Psychotherapy. In: The Internat. Forum Logotherapy, Berkeley, 13, 1, 17-19 - part 1
Längle A (2014) From Viktor Frankl’s Logotherapy to Existential Analytic psychotherapy. In: European Psychotherapy 12, 67-83
Wong, P. T. P. (1998). Meaning-centred counselling. In P. T. P. Wong, & P. Fry (Eds.), The human quest for meaning: A handbook of psychological research and clinical applications (pp. 395-435). Mahwah, NJ: Erlbaum.
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