今回の記事は、初期ハイデガーにおいて重要な方法論的概念である形式的告示について書いていく。形式的告示とそれに類する表現は、1919年から1930年、最初期から『存在と時間』出版直後の時期まで、随所で言及がなされているが、最も主題的に論じられているのは1920/21年の講義「宗教現象学入門」においてである。

形式的告示とは何か
 初期のハイデガーは、人間の事実的な生を解明することを主な問題の一つとしていた。事実的な生においては、人は科学的に規定されるような一義的な事物と関わっているわけではない。人は、過去をどう捉え、未来に向けていかに行動するか、という一定の歴史観の内に生きており、その歴史的な文脈の中で、存在者はその都度多様な意義を持って現われてくる。また、その歴史性そのものもまた、常に生成の途上にあり、変化に富んでいる。このような事実的な生における、存在者や歴史性の現在進行形で動的な側面を捉えるために、内容ではなく形式を記述するのが、形式的告示という方法である。しかし、形式的告示は生の内容的な側面を捨象するわけではない。形式的告示は内容を記述するための方向性を示すために形式を提示するのであって、その形式に従って、事実的な生のその都度の経験的内容が記述されていくことになる。

遂行意味、関係意味、内実意味
 形式的告示という方法論は、同時期にハイデガーが使用していた遂行意味、関係意味、内実意味という三つの意味概念と重要な関係にある。遂行意味は、生がどのように生きられるかということを示し、関係意味は生が事象とどのように関係しているかを示し、内実意味は事象がどのような内容を持っているかを示している。ハイデガーは、事実的な生がそれ自身の本質として持っている傾向として、内実意味に囚われ、関係意味が問われなくなるという問題を指摘している。この問題に対して、形式としての関係意味を最初に提示することによって、内実意味への傾倒を防ぎ、遂行意味による意味全体の生成を捉える方法が、形式的告示である。

形式的告示の消極的意義ー理論的見方の予防
 形式的告示は、生の内容へ没入して限定された観点に陥るのを防ぎ、まず形式的に問題を立てる方法であった。すると、フッサールが提示したカテゴリー的直観としての形式化とどう異なるのかが、問われなければならない。もし、フッサールの形式化と形式的告示が同じものであるならば、わざわざ形式的告示という方法が新しく必要とされることはないからである。ハイデガーにおける形式という概念は事象との関係を表しており、フッサールへの批判は、その形式化が理論的な関係を内実的な意味として前提してしまっていることにある。事象はその内容だけでなく、それへ関係する仕方によっても規定される。形式的告示は、関係の仕方をも含めて、内実的な前提を廃した形式化を推し進めるところにその独自性があるといえる。

形式的告示の積極的意義ー解釈の方向性の提示
 形式的告示には、先入観の予防という消極的な意義だけでなく、実際に生きられる生を解釈して行くにあたって、その方向生を示すという積極的な意義もある。『存在と時間』で言えば、実存的な生き方の類型である本来性、非本来性といった概念が内実的な意味であり、現存在や世界内存在、開示性や関心といった概念は本来性や非本来性といった生き方がそこで展開されるところの形式的な概念である。『存在と時間』には、このような形式的な概念が提示され、それが具体的な生に即して充実されるという展開の繰り返しを見ることができる。例えば第1編では、最初2章で世界内存在という形式的概念が示され、3章で世界性の内実的な充足が為される。また、4章では最初に現存在の誰という形式的な概念が提示され、後にそれが世間的自己として内実的な充足が為される。5章Aでは現存在の開示性が形式的な概念として示され、Bではその日常的な内実が頽落として示される。

まとめ
 前回、カテゴリー的直観について記事を書いたことは、ハイデガーとフッサールの共通の地盤を確認するのに役に立った。それに対して、今回形式的告示について調べてまとめていったことは、フッサール現象学とハイデガー現象学の差異をよく見通せるようにしてくれた。しかし、形式的告示は、既成的な解釈内容や理論的見方への没入を防止するものの、それですぐさま事実的な生の学的解釈が可能になるわけではないように思える。取り除くことのできる前提と、解釈の必然的構造である先把握は、異なる。従って、理論的な見方を予防しても、解釈が了解による先構造に予め規定されていることは変わらない。十全な学的解釈は、解釈学的循環の中で了解から勝ち取られなければならないのであって、形式的告示は、このような解釈作業そのものというよりは、それを可能にする条件であるといえる。