今回の記事は、カテゴリー的直観という概念について書いていく。カテゴリー的直観は、フッサール現象学の中でハイデガーが最も重視した概念であり、そこから存在了解のアプリオリという発想が生まれることになる。カテゴリー的直観は最初フッサールによって『論理学研究』第二巻(1901)で論じられ、ハイデガーにおいては1925年の講義『時間概念の歴史への序説』で主に扱われている。

カテゴリー的直観とは何か
 カテゴリー的直観は、志向性において働く一つの直観である。志向性は一つの意味を志向し、それが直観によって充実されていく。実際に見たり触れたりできるような実在的な対象は、五感によって感覚できるような感性的直観によって充実される。しかし、論理学的な形式や概念のような理念的対象は、感性的直観では充実することができない。このようなカテゴリー的対象を充実する直観が、カテゴリー的直観である。

カテゴリー的直観の二つの働き方、綜合作用とイデア視
 カテゴリー的直観が理念的対象を充実する仕方は二つある。それが綜合作用とイデア視である。綜合は、感性的対象に含まれている諸要素を際立たせ、関係付ける作用である。例えば、今知覚されている赤い椅子を赤という要素と椅子という要素に分け、この椅子は赤い、という命題が形成される。イデア視は、対象に含まれている本質的要素を抜き出す作用である。例えば、複数の玉が目の前にあって、それらが赤いとき、そこから赤という本質的要素を抜き出すことができる。

カテゴリー的直観と根源的アプリオリ
 綜合とイデア視の働き方を見ると、両方とも現実における感性的対象によって基礎付けられていることが分かる。従って、カテゴリー的直観は元々感性的対象に含まれていたものによってカテゴリー的対象を充実するのであって、カテゴリー的対象は、感性的対象の内に既に、アプリオリに存在していたということができる。
 『時間概念の歴史への序説』ではこのような意味でのアプリオリが、カント哲学及び新カント主義におけるアプリオリ概念と区別する意味で根源的とされている。カント哲学でアプリオリと呼ばれる領野は、経験を廃した主観の形式的な認識能力に限られる。カテゴリー的直観は、カント的な主観優位のアプリオリ概念を克服し、世界との関わりにおける具体的な経験から本質を記述することを可能にしたという意味で、根源的アプリオリな領野を開拓したのである。
 『存在と時間』ではこうした根源的なアプリオリの構造が、前存在論的な存在了解の内容として、具体的な生の日常性から取り出されることになる。

現象学概念の整理
 綜合作用とイデア視はカテゴリー的直観として、似たような作用に見えるが、実際にはかなり異なった特質を持っている。紛らわしいのは、イデア視は綜合の作用自身にも働きかけるということである。綜合作用が定立する命題は、具体的な内容を含んだ命題であるから、それはイデア視によってさらに抽象化することができる。内容を完全に捨象する論理学の現象学的研究は、総合作用によって充実された具体的命題から、命題の形式をイデア視が抜き出すことによって、論理を基礎付ける試みだということができる。すると、カテゴリー的直観に関して、綜合作用、感性的対象からのイデア視、理念的対象からのイデア視の三つを区別しなければならない。
 フッサールは『論理学研究』から後『イデーン』において、イデア視を受け継ぐ概念として、本質直観という概念を論究している。本質直観における重要な区別として、類的普遍化と形式化という二つの作用がある。この区分は、恐らく二つのイデア視、感性的対象に対するイデア視と理念的対象に対するイデア視を受け継ぐものであり、とりわけ後者の形式化という概念は、ハイデガーの形式的告示という方法論的概念と重要な関係にある。
 ハイデガーは、現存在と世界との知的関係に関して、了解、解釈、言明という三つの段階を区別している。言明は解釈に基づき、解釈は了解に基づく。そして、この三つの段階はそれぞれ独自の分節を有している。現存在の存在了解は、解釈によって論究されるが、解釈自身が理解に基づいているので、そこに解釈学的循環が生じることになる。言明は、現存在が道具的な世界の内に持っていた元々の関係を客体化し、平板化して表現するものである。
 フッサールとハイデガーの諸概念を論究する場合には、以上の区別が重要になってくる。
カテゴリー的直観
・綜合作用
・感性的(端的な)作用に対するイデア視
・総合作用に対するイデア視
本質直観
・類的普遍化
・形式化
現存在の開示性
・了解
・解釈
・言明

『存在と時間』におけるカテゴリー的直観
 カテゴリー的直観によって明らかにされた根源的なアプリオリという領野が、『存在と時間』においては、現存在がその内で配慮的に交渉する世界という概念に相当するということは、ほとんど全ての先行研究で一致した見解になっている。しかし、カテゴリー的直観そのものが『存在と時間』で具体的にどのような役目を果たしているかという問題に関しては、研究者によってかなり見解が異なっているように見える。
 個人的には、綜合作用が解釈として引き継がれているという説に同意した上で、イデア視は形式化(形式的告示)として柔軟な解釈(解釈学的循環)を可能にし、類型化としては具体的な解釈を学問的に適切なレベルまで抽象化するために用いられているように思える。哲学が有する学術的知見は、イデア視として解釈に基づき、解釈は綜合作用として具体的な生における存在了解(端的な作用)に基づく。このような段階的な基礎付けを有することによって、哲学は空虚な思弁であることを回避し、超越論的な本質学として実証主義的学問に優越したものになる。