今回の記事は『自我の超越』に基づいて、自我の構成要素である状態、行動、性質について書いていく。
1、概要
『自我の超越』は、自我とは構成された存在者に過ぎないということを示し、自我がどのように構成され、どのようなものとして構成されるのかを記述した著作である。題名に含まれている超越とは、フッサールの現象学的な意味で用いられており、知覚や感情といった意識に内在的な経験に基づきつつも、その内在的な経験を超えて自我が構成されることを意味している。サルトルが自我を構成する要素として取り上げているのが、状態、行動、性質である。
2、状態
状態というものを理解するには、体験と状態の区別、純粋な反省と不純な反省の区別をまず把握しなければならない。体験とは、反発や魅力といった、その都度具体的に経験される事柄である。それに対して状態とは、憎しみや愛情といった、体験を通して構成される恒常的な在り方である。この構成された状態をそのまま反省するのが、不純な反省であり、状態に含まれる内在的な体験のみを反省するのが、純粋な反省である。
しかし、状態は体験からただ構成されるだけではない。両者は、流出という特殊な関係にある。
2、行動
おそらくサルトルにおいては、行為は両義的な意味を有している。一方で行為は、常に一定の志向を持つ人間の根本的な在り方であると見なされている。このことは、『情動論素描』において情動が志向された目的を有する行為として論じられていること、『存在と無』における自由論においてまず最初に行為の志向的性質が指摘されていることから分かる。この意味での行為は、行動や認識といった人間の在り方が、非措定的に意識された世界内の目的の内に常にあるということを意味している。しかし『自我と超越』では、行為は特定の注意と労力を伴った、具体的な行動として論じられる。この場合の行為においては、行為の全体が措定的意識の対象によって規定されているということが強調される。そこでは「私たちはここで、行動的(actif)な意識と、たんに自然発生的な意識とのあいだの区別を、確立しようとするわけではない」(p.52)という但し書きがあるが、この自然発生的な意識が、前者の意味での行為、つまり特定の目標を持って非反省的に生じる意識を指示しているのだと思われる。
サルトルにおけるこの二つの行為概念は、矛盾したものではなく、むしろ互いを補完するものであると考えることができる。措定的意識はそれ自身単独では行為することはできない。なぜなら、措定される対象の内に全体的な目的との関係で意味を与えるのは、非措定的に意識された自己意識であり、もしこのような非措定的意識が働かなければ、措定的意識の対象は常に中立的な事物として措定され、それ自体として快不快といった感覚を有する刺激しか行動を促すというようなことはなくなるからである。しかし他方で、非措定的意識はそれ自身単独では行為することはできない。なぜなら、我々は何らかの対象を意識せずに具体的な行為をすることはできないからである。文章を意識せずに、何かを読むという行為はできない。その意味で、具体的な行為は対象に支えられている。
『自我の超越』における行為は、措定される対象から規定される具体的な行為であり、状態と共に性質、エゴに属するものとして論じられている。しかし、この意味での行為を状態と並列的なものとして見なしていいかには、疑問がある。確かに、状態は諸々の体験から超越されるものであり、それは行動を支える対象が超越者であることと対応している。ただ、ここには差異があり、状態は自らの体験に対する超越であるのに対して、行動は自らの外部の、為されるべきものへの超越である。この差異を鑑みると、行動はエゴの構成には含まれない。むしろ、行動はエゴが超越される元となるものであり、状態よりも体験と並列的な位置を持つ。従って、行動と状態は、体験と状態が持つのと同様の関係を持つ。つまり、諸々の行動から自らに対する一定のイメージが作り上げられ、自らが行動するのは自分がこういう状態だからだ、という状態からの流出として行動が把握されるようになる。
4、性質
性質は、個々の状態が発生する可能性を現わすものとして、状態から超越される潜在的な在り方である。例えば、怒りという状態から、怒りやすいという性質が超越され、怒りやすいという性質の潜在性が現実化することによって怒るとされる。
性質と状態の違いは、状態が直接的な体験から超越される対象であるのに対して、性質は既に超越された状態からさらに超越されるという点にある。また、性質から状態への移行は、状態から体験への移行である流出とは区別され、現勢化と名付けられる。類型論にしろ特性論にしろ、心理学における既存のパーソナリティ理論はほぼ全て、この性質をまとめあげたものである。
文献
J-P・サルトル(2000)『自我の超越 情動論素描』(竹内芳郎訳)人文書院
1、概要
『自我の超越』は、自我とは構成された存在者に過ぎないということを示し、自我がどのように構成され、どのようなものとして構成されるのかを記述した著作である。題名に含まれている超越とは、フッサールの現象学的な意味で用いられており、知覚や感情といった意識に内在的な経験に基づきつつも、その内在的な経験を超えて自我が構成されることを意味している。サルトルが自我を構成する要素として取り上げているのが、状態、行動、性質である。
2、状態
状態というものを理解するには、体験と状態の区別、純粋な反省と不純な反省の区別をまず把握しなければならない。体験とは、反発や魅力といった、その都度具体的に経験される事柄である。それに対して状態とは、憎しみや愛情といった、体験を通して構成される恒常的な在り方である。この構成された状態をそのまま反省するのが、不純な反省であり、状態に含まれる内在的な体験のみを反省するのが、純粋な反省である。
しかし、状態は体験からただ構成されるだけではない。両者は、流出という特殊な関係にある。
「したがって、嫌悪の意識は、反省にたいしては、憎しみからの自然発生的な流出のようにあらわれる。ここではじめて、わたくしたちは流出(èmanation)という観念に出会ったわけだが、これは、無活動な心的状態を意識の自発性にむすび合わせようとするときにはいつでも、きわめて重要になるものである。反撥は、いわば、憎しみを機会にして、しかも憎しみを義性にして自分自身を生み出すものとして、あたえられるが、逆に憎しみは、反撥をつうじて、反撥の流出してくる元として、あらわれる。」(p.51)状態は体験から構成されるにも関わらず、むしろ状態はそこから体験から生じてくるところのものとして構成される。人は特定の人物に対して、嫌悪感を感じた諸々の体験から、憎しみを持つに至るのだが、当人は憎んでいるからこそ嫌悪感を感じていると、その体験を理解するのである。
2、行動
おそらくサルトルにおいては、行為は両義的な意味を有している。一方で行為は、常に一定の志向を持つ人間の根本的な在り方であると見なされている。このことは、『情動論素描』において情動が志向された目的を有する行為として論じられていること、『存在と無』における自由論においてまず最初に行為の志向的性質が指摘されていることから分かる。この意味での行為は、行動や認識といった人間の在り方が、非措定的に意識された世界内の目的の内に常にあるということを意味している。しかし『自我と超越』では、行為は特定の注意と労力を伴った、具体的な行動として論じられる。この場合の行為においては、行為の全体が措定的意識の対象によって規定されているということが強調される。そこでは「私たちはここで、行動的(actif)な意識と、たんに自然発生的な意識とのあいだの区別を、確立しようとするわけではない」(p.52)という但し書きがあるが、この自然発生的な意識が、前者の意味での行為、つまり特定の目標を持って非反省的に生じる意識を指示しているのだと思われる。
サルトルにおけるこの二つの行為概念は、矛盾したものではなく、むしろ互いを補完するものであると考えることができる。措定的意識はそれ自身単独では行為することはできない。なぜなら、措定される対象の内に全体的な目的との関係で意味を与えるのは、非措定的に意識された自己意識であり、もしこのような非措定的意識が働かなければ、措定的意識の対象は常に中立的な事物として措定され、それ自体として快不快といった感覚を有する刺激しか行動を促すというようなことはなくなるからである。しかし他方で、非措定的意識はそれ自身単独では行為することはできない。なぜなら、我々は何らかの対象を意識せずに具体的な行為をすることはできないからである。文章を意識せずに、何かを読むという行為はできない。その意味で、具体的な行為は対象に支えられている。
『自我の超越』における行為は、措定される対象から規定される具体的な行為であり、状態と共に性質、エゴに属するものとして論じられている。しかし、この意味での行為を状態と並列的なものとして見なしていいかには、疑問がある。確かに、状態は諸々の体験から超越されるものであり、それは行動を支える対象が超越者であることと対応している。ただ、ここには差異があり、状態は自らの体験に対する超越であるのに対して、行動は自らの外部の、為されるべきものへの超越である。この差異を鑑みると、行動はエゴの構成には含まれない。むしろ、行動はエゴが超越される元となるものであり、状態よりも体験と並列的な位置を持つ。従って、行動と状態は、体験と状態が持つのと同様の関係を持つ。つまり、諸々の行動から自らに対する一定のイメージが作り上げられ、自らが行動するのは自分がこういう状態だからだ、という状態からの流出として行動が把握されるようになる。
4、性質
性質は、個々の状態が発生する可能性を現わすものとして、状態から超越される潜在的な在り方である。例えば、怒りという状態から、怒りやすいという性質が超越され、怒りやすいという性質の潜在性が現実化することによって怒るとされる。
性質と状態の違いは、状態が直接的な体験から超越される対象であるのに対して、性質は既に超越された状態からさらに超越されるという点にある。また、性質から状態への移行は、状態から体験への移行である流出とは区別され、現勢化と名付けられる。類型論にしろ特性論にしろ、心理学における既存のパーソナリティ理論はほぼ全て、この性質をまとめあげたものである。
文献
J-P・サルトル(2000)『自我の超越 情動論素描』(竹内芳郎訳)人文書院
コメント