今回の記事は、『内的時間意識の現象学』におけるフッサール時間論の出発点である、ブレンターノ批判について書いていく。
1、ブレンターノの根源的連合理論
時間論の基本的な問題として、ある表象が一方では保持されながらも他方では変容していくという、時間の流れをどう説明するかという問いがある。
よく用いられるのはメロディの例である。メロディにおける個々の音は、それぞれが全く保持されず、瞬く間に過去のものとなってしまうと、個別的な音が次から次へと現れるだけで、メロディとしての統一を形成することができない。逆に、メロディにおける個々の音が完全に保持されてしまうと、それぞれの音が同時に鳴り響く和音になってしまう。メロディが成立するためには、個々の音がメロディの統一において保持されながらも、時間の流れによって区別されなければならないのである。
ブレンターノの根源的連合理論は、この特殊な形における表象の保持を、空想によって説明するものである。空想は、感覚が生産した表象を受け継ぎ、現在のものではなくなった表象を保持しながら、時間的な表象を付け加える。この時間的な表象は常に、より過去のものへと、変化していくものであり、これによって、我々は個々の出来事がどれくらい前のものなのかを判断することができるのである。
2、ブレンターノ以前の理論
ブレンター以前の心理学者は、心理的な刺激の感覚が外界の刺激の大きさに対応するように、時間の感覚に関しても外界に対応するものがあると考えた。そこで、外界の刺激が十分な強度を持つことが現在の感覚であり、その強度が徐々に減退していくことが過去の感覚であるとされたのである。
しかし、こうした理論では、単に強い強度の感覚と弱い強度の感覚が並存するだけで、時間の流れを説明することができない。感覚の持続と持続の感覚は異なり、外的な刺激は現在的な感覚内容しか喚起することができないのである。(こうした想起=感覚とする理論はベルクソンによっても、また異なった仕方で批判されている。)これに対してブレンターノの理論は、過去表象の保持を感覚ではなく空想によって、過去表象の過去的性質を感覚の減退ではなく空想が付け加える時間的表象によって説明するところに利点がある。
3、フッサールによる根源的連合理論の批判
しかし見方を変えれば、ブレンターノの理論も、感覚理論が前提した漸次的に強度を減じていく感覚を、漸次過去のものになっていく空想表象に代えたものに過ぎないといえる。ここからは以下のような問題が生起する。
・空想されたものは非現実的なものであるから、時間の流れ、継起も非現実的なものとなってしまう。
・空想する現在が、空想された過去と重なってしまい、現在と同時に過去があることになってしまう。
・現在の時間知覚に空想が含まれているなら、過去の時間知覚の想起は、空想の空想になってしまう。
フッサールによれば、こうした問題を克服するためには、時間を複数の層によって構成されたものとして見なければならない。「ひとつの層だけに限定された時間分析は十分でなく、時間分析は、むしろ、構成のすべての層を追求するのでなければならない。」(p.79) 感覚にしろ空想にしろ、意識に現前する第一次的内容は現在的なものであり、過去や未来を含んだ時間に直接対応することはない。時間は何らかの第一次的内容として与えられるものではなく、むしろそこから構成されるところのものである。従って、時間を統握、構成する志向性と第一次的内容を区別し、志向性がどのように時間を構成するかを研究しなければならないのである。
文献
エトムント・フッサール(2016)『内的時間意識の現象学』(谷徹訳)筑摩書房
1、ブレンターノの根源的連合理論
時間論の基本的な問題として、ある表象が一方では保持されながらも他方では変容していくという、時間の流れをどう説明するかという問いがある。
よく用いられるのはメロディの例である。メロディにおける個々の音は、それぞれが全く保持されず、瞬く間に過去のものとなってしまうと、個別的な音が次から次へと現れるだけで、メロディとしての統一を形成することができない。逆に、メロディにおける個々の音が完全に保持されてしまうと、それぞれの音が同時に鳴り響く和音になってしまう。メロディが成立するためには、個々の音がメロディの統一において保持されながらも、時間の流れによって区別されなければならないのである。
ブレンターノの根源的連合理論は、この特殊な形における表象の保持を、空想によって説明するものである。空想は、感覚が生産した表象を受け継ぎ、現在のものではなくなった表象を保持しながら、時間的な表象を付け加える。この時間的な表象は常に、より過去のものへと、変化していくものであり、これによって、我々は個々の出来事がどれくらい前のものなのかを判断することができるのである。
2、ブレンターノ以前の理論
ブレンター以前の心理学者は、心理的な刺激の感覚が外界の刺激の大きさに対応するように、時間の感覚に関しても外界に対応するものがあると考えた。そこで、外界の刺激が十分な強度を持つことが現在の感覚であり、その強度が徐々に減退していくことが過去の感覚であるとされたのである。
しかし、こうした理論では、単に強い強度の感覚と弱い強度の感覚が並存するだけで、時間の流れを説明することができない。感覚の持続と持続の感覚は異なり、外的な刺激は現在的な感覚内容しか喚起することができないのである。(こうした想起=感覚とする理論はベルクソンによっても、また異なった仕方で批判されている。)これに対してブレンターノの理論は、過去表象の保持を感覚ではなく空想によって、過去表象の過去的性質を感覚の減退ではなく空想が付け加える時間的表象によって説明するところに利点がある。
3、フッサールによる根源的連合理論の批判
しかし見方を変えれば、ブレンターノの理論も、感覚理論が前提した漸次的に強度を減じていく感覚を、漸次過去のものになっていく空想表象に代えたものに過ぎないといえる。ここからは以下のような問題が生起する。
・空想されたものは非現実的なものであるから、時間の流れ、継起も非現実的なものとなってしまう。
・空想する現在が、空想された過去と重なってしまい、現在と同時に過去があることになってしまう。
・現在の時間知覚に空想が含まれているなら、過去の時間知覚の想起は、空想の空想になってしまう。
フッサールによれば、こうした問題を克服するためには、時間を複数の層によって構成されたものとして見なければならない。「ひとつの層だけに限定された時間分析は十分でなく、時間分析は、むしろ、構成のすべての層を追求するのでなければならない。」(p.79) 感覚にしろ空想にしろ、意識に現前する第一次的内容は現在的なものであり、過去や未来を含んだ時間に直接対応することはない。時間は何らかの第一次的内容として与えられるものではなく、むしろそこから構成されるところのものである。従って、時間を統握、構成する志向性と第一次的内容を区別し、志向性がどのように時間を構成するかを研究しなければならないのである。
文献
エトムント・フッサール(2016)『内的時間意識の現象学』(谷徹訳)筑摩書房
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