今回の記事では、サルトルの『情動論粗描』(1939)の議論に従って、情動について考えていく。
1、情動の定義
まず最初から、サルトルは情動をどのようなものとして規定しているかを見ていく。彼は情動を次のように論じている。
このような情動の例として、サルトルは次のような場面を描いている。
2、情動の無意識性ー意味付けと意識=理性
危険な事態が目前に迫っているのに失神するという行為は、自らを無防備なものとしてさらすことである。それは逃亡を目的としているにも関わらず、実際にはむしろ危険へと突き進んでいる。同様に、我々は悲しんでばかりいても何にもならないのに、悲しみ続けたり、怒っても何が変わるわけでもないのに、怒りを抱いたりする。なぜ理性的な人間がこのような非合理的な行為としての情動を抱きうるのだろうか。それは、情動は非反省的地平(無意識)の内で生ずるからである。サルトルはこの点をかなり丁寧に論述している。
最初に、非反省的意識は書くという行為を例として説明されている。
次に、このような自分が書く行為は、他人が書く行為と比較されながら論述される。自分が書く語は、他人が書くのを見ている語に比べて、確実であり、要求するものであるという、二つの特徴を持っている。他人が文章を書くのを見ている限りでは、彼がこれから一体何を書くのかは蓋然的な予想に留まるし、彼が何を書こうとするのかも完全に自由である。それに対して、自分が文章を書く場合は、自分がこれから書く語はあらかじめ把握されているという意味で確実であり、語はこれから書かれるべき語として一つの要求を有している。自分が書く語がこのような特徴を持って意識に対して現れてくるのは、それらの特徴が非措定的意識の内で付与されるからである。ちなみに、自我に対しての措定的意識、すなわち反省は、非措定的意識と対他意識の中間的な意識である。
最後に、非措定的意識の働き方の移行が反省を必要としないということが、判じ画の例によって示される。
これらの非常に具体的な例からサルトルが示そうとしたことは、どのように書くか、何のために書くか、という手段と目的、意味と価値の総体、つまり世界は、非措定的(無意識的)に理解され、生きられているということである。情動の対象の世界内的な意味は、非措定的意識の内で自発的に構成され、措定的意識にとっては受動的に現れる。だからこそ、サルトルは次のように言うことができるのである。
3、情動の身体性
このような非措定的意識(無意識)における意味的構成を見逃すと、情動は単純な身体的状態となってしまう。この立場を代表するのが、現代の我々にも有名なジェームズ=ランゲ説である。この説では身体の生理的な状態が意識に反映されることによって、情動が生じる。つまり、悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのである。この点で精神分析の学説は両義的なものとなっている。精神分析は症状の意味として、無意識に抑圧されたものを発見した。しかし他方で、意味を構成する意識と無意識は完全に分断されていると考えられている。そこで無意識の側に抑圧された表象は、他の表象に結びつく生理的な興奮という形で、生理学的に働かなければならないのである。「意味と意識のずれ」(p.132)を説明するために精神分析が陥った生理学的な因果論と意味的な象徴論の矛盾を解消するのが、無意識的に意味を構成する非措定的意識という概念である。
情動が単なる身体的状態でないとすると、情動における身体性はどのように把握されるのが適切なのだろうか。サルトルはその役割について次のように述べている。
動転:生理的現象
佯りの情動:単なる行為
真の情動:行為+生理的現象
後に情動の二要因理論を提唱したシャクターとシンガーの実験は、まさにこのサルトルの理論を、心理学の分野で実証したものとみることができる。
4、情動の言語性
情動は行為として、意識の自発的な働きから生じるものである。それにも関わらず、なぜ意識は自分で作り出したその情動に囚われ、悩まされ、重度の場合には精神障害に陥ったりするのだろうか。その原理をサルトルは次のように論じている。
5、情動が発生する二つのプロセス
これまでは、情動は主体が世界を不合理な仕方(魔術的な仕方)で生きようとする行為として説明されてきた。しかし、『情動論粗描』の最後でサルトルは、世界がそれ自身において魔術的な様相を見せることによって情動が生じるプロセスを説明している。
世界内存在ー道具的世界
ー魔術的世界ー意識による魔術的世界の投企
ー事実性による魔術的世界の現出
引用文献
J-P・サルトル(2000)『自我の超越 情動論粗描』(竹内芳郎訳)人文書院
1、情動の定義
まず最初から、サルトルは情動をどのようなものとして規定しているかを見ていく。彼は情動を次のように論じている。
「いまや私たちは、情動とは何であるかを了解することができる。それは世界の変形(une transformation du monde)なのだ。きめておいた道があまりにむずかしくなったとき、あるいは、道が解らなくなったとき、私たちはもはや、こんなに小うるさくてこんなにむずかしい世界のなかには、とどまっておれなくなる。一切の道が塞がれておりしかもなお、行動はしなければならぬ。そのとき私たちは、世界を変えようとこころみる、すなわち、あたかも事物とその潜在態との関係が決定論的な過程によってではなく、魔術(magie)によって規制されているかのように、世界を生きようとこころみるのだ。」(pp.139-140)ここでの世界はハイデガーの世界内存在という概念から来ている。つまり、世界とは有意義性であり、諸々の目的や手段の総体である。決定論的過程とは、このような有意義性が合理的に組織されていることである。他方で、魔術的というと、神秘的な概念のように聞こえるが、それは手段と目的の総体が非合理的に組織されているということである。従って、簡潔に要約すると、情動とは世界が合理的なものから、非合理的なものになることであるということができる。別の言い方をすれば、ある目的を非合理的な仕方で解決しようとする行為が、情動なのである。
このような情動の例として、サルトルは次のような場面を描いている。
「私は手をのばして葡萄の一房をとろうとする。ところが手の届かぬところにあるので、とることができない。私は肩をすぼめ、手をおろして、「あいつはあんまり青すぎる」とつぶやきながら立ち去る。」(p.142)ここでは、葡萄をとることができないという不満を、青すぎるという魔術的なこじつけによって解消しようとする行為として、情動が現れている。サルトルはこの例以外にも、恐れや悲しみや喜びといった様々な情動を具体的に説明している。例えば、恐怖としての失神は、恐るべきものを意識から消し去るという形で逃亡しようとする魔術的な行為である。
2、情動の無意識性ー意味付けと意識=理性
危険な事態が目前に迫っているのに失神するという行為は、自らを無防備なものとしてさらすことである。それは逃亡を目的としているにも関わらず、実際にはむしろ危険へと突き進んでいる。同様に、我々は悲しんでばかりいても何にもならないのに、悲しみ続けたり、怒っても何が変わるわけでもないのに、怒りを抱いたりする。なぜ理性的な人間がこのような非合理的な行為としての情動を抱きうるのだろうか。それは、情動は非反省的地平(無意識)の内で生ずるからである。サルトルはこの点をかなり丁寧に論述している。
最初に、非反省的意識は書くという行為を例として説明されている。
「書くということは、私のペンの下に生まれてくるかぎりの語について積極的な意識をもつことであるが、でも、私によって書かれるかぎりの語について意識をもつことではない。」(p.136)日本語で言えば、文章を書く場合には、それを構成する個々の語として、漢字を書かなければならない。そして、漢字を書くためには、それを構成する部首を書かなければならない。そして、部首を書くためには、直線や曲線を書かなければならないし、それらを書くためにペンを握る指を正確に動かさなければならない。しかし、我々は文章を書くとき、意識しているのはその目的となっているところの文章だけであって、先に挙げた文章を書くための諸々の手段、工程は意識されていない。それにも関わらず、我々は文章を書くということを立派にやってのけることができる。この場合、諸々の手段、工程は、自我へ向けられた措定的意識の内で行われるのではなく、非措定的な自己意識の内で行われるのである。
次に、このような自分が書く行為は、他人が書く行為と比較されながら論述される。自分が書く語は、他人が書くのを見ている語に比べて、確実であり、要求するものであるという、二つの特徴を持っている。他人が文章を書くのを見ている限りでは、彼がこれから一体何を書くのかは蓋然的な予想に留まるし、彼が何を書こうとするのかも完全に自由である。それに対して、自分が文章を書く場合は、自分がこれから書く語はあらかじめ把握されているという意味で確実であり、語はこれから書かれるべき語として一つの要求を有している。自分が書く語がこのような特徴を持って意識に対して現れてくるのは、それらの特徴が非措定的意識の内で付与されるからである。ちなみに、自我に対しての措定的意識、すなわち反省は、非措定的意識と対他意識の中間的な意識である。
最後に、非措定的意識の働き方の移行が反省を必要としないということが、判じ画の例によって示される。
「たとえば、判じ画のなかに隠されてある一つの形相を探すこと(「鉄砲はどこにあるのか?」)は、その挿画を前にして知覚的に或るあたらしい態度をとることであり、あたかも鉄砲にたいするように木の枝・電柱・肖像にたいしてふるまうことであり、鉄砲にたいして私たちがおこなうであろうような眼の運動を実現することである。しかしながら、私たちはこの運動を、そのものとしては把握しない。」(p.140)書く場合と同じように、ここでも鉄砲を探すという目標のみが措定的に意識されているのであって、そのための諸々の手段は意識されていない。このような鉄砲探しは、絵の中に鉄砲が隠れているという注解から直接生じるのであって、鉄砲を探すための諸々の運動はそれに従って、特に反省を経ずに無意識的に生ずるのである。
これらの非常に具体的な例からサルトルが示そうとしたことは、どのように書くか、何のために書くか、という手段と目的、意味と価値の総体、つまり世界は、非措定的(無意識的)に理解され、生きられているということである。情動の対象の世界内的な意味は、非措定的意識の内で自発的に構成され、措定的意識にとっては受動的に現れる。だからこそ、サルトルは次のように言うことができるのである。
「情動をおこす主体と情動をおこさせる対象とは、不可分の綜合のなかに結合されているのであり、情動とは、世界を把握する或る把握仕方なのである。」(p.134)この一連の議論は、意味付与という過程が意識と理性によってのみ行われるものではないということを示すことによって、意識=理性の統御を逃れる情動を意味の次元で理解する道を開いている。情動は行為として、常に何らかの目的を意味として持っている。行為の対立概念は運動であり、目的を持たない行為は行為ではなく、単なる物理的な運動である。
3、情動の身体性
このような非措定的意識(無意識)における意味的構成を見逃すと、情動は単純な身体的状態となってしまう。この立場を代表するのが、現代の我々にも有名なジェームズ=ランゲ説である。この説では身体の生理的な状態が意識に反映されることによって、情動が生じる。つまり、悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのである。この点で精神分析の学説は両義的なものとなっている。精神分析は症状の意味として、無意識に抑圧されたものを発見した。しかし他方で、意味を構成する意識と無意識は完全に分断されていると考えられている。そこで無意識の側に抑圧された表象は、他の表象に結びつく生理的な興奮という形で、生理学的に働かなければならないのである。「意味と意識のずれ」(p.132)を説明するために精神分析が陥った生理学的な因果論と意味的な象徴論の矛盾を解消するのが、無意識的に意味を構成する非措定的意識という概念である。
情動が単なる身体的状態でないとすると、情動における身体性はどのように把握されるのが適切なのだろうか。サルトルはその役割について次のように述べている。
「ここで私たちも、純粋に生理的な現象の役割を了解することができる。つまり、それは情動の本気であること(le sérieux)を示しているのであり、信憑の現象なのだ。」(p152)情動における生理的現象は、非措定的意識が行為として世界を生きる過程で生じる。そして措定的意識においては、そこで形成された生理的現象が、情動が本気であることを感じさせる素材となるのである。このように、情動が生じるためには、情動を喚起するところの意味と、それによって引き起こされながら情動に確実さを与える身体的状態の二つが共に必要となる。サルトルは、この内の身体的状態が欠けた、単なる行為としての情動を、佯りの情動として記述している。それは、本当は嬉しくないが、他人から貰った贈り物であるため、喜ばなければならないといった情動である。このような情動は、本当は嬉しくないために生理的な興奮などを伴わないが、他人との良好な関係を保つという明確な目的を持った行為ではあるのである。従って、この観点から情動をまとめると、次のようになる。
動転:生理的現象
佯りの情動:単なる行為
真の情動:行為+生理的現象
後に情動の二要因理論を提唱したシャクターとシンガーの実験は、まさにこのサルトルの理論を、心理学の分野で実証したものとみることができる。
4、情動の言語性
情動は行為として、意識の自発的な働きから生じるものである。それにも関わらず、なぜ意識は自分で作り出したその情動に囚われ、悩まされ、重度の場合には精神障害に陥ったりするのだろうか。その原理をサルトルは次のように論じている。
「この囚われ(captivité)という性格そのものは、意識がそれを自分自身のうちで実現するわけでなく、むしろ意識はそれを対象のうえにとらえ、対象の方が囚えるもの・縛りつけるものとなるのであって、対象の方が意識を奪ってしまうのである。」(p.156)悲しみは悲しむべき対象によって、喜びは喜ぶべき対象によって、引き起こされ、囚われる。しかし、このような対象の世界内的な意味は非措定的意識(無意識)によって与えられる。つまり、非措定的意識は、対象を媒介にして措定的意識に働きかけるのである。措定的意識は、非措定的意識の働きを直接知ることはできず、常に非措定的意識によって投企された世界を通して自我への認識を得る。この事情が次の文章によって示されている。
「意識は、世界のうえでしか自分を識りはしない。そして懐疑というものも、その性質からして、疑わしいものという対象の実存的一性質の構成か、それとも還元(réduction)という反省的活動、つまり措定的意識に向けられたあたらしい意識の特性か、でしかあり得ないのだ。」(p.156)この観点から、意識に対する情動の自立性を証立てる対象の特性は、主に二つある。一つは、先程論じた身体的状態であり、二つ目は、言語的に捉えられた状況の認識である。言語という表現こそ直接用いてはいないものの、サルトルは次のようなことを書いている。
「性質というものはすべて、無限への移行によってしか対象にあたえられるものではない。たとえば、この灰色は、現実的ならびに狩野的な、無限の射映の統一体をあらわしているもので、そのなかには、灰緑色、或る光線のもとで見られた灰色、黒色、なども含まれているだろう。情動が対象と世界とにあたえる諸性質も同様であって、情動がそれらを対象と世界とにあたえるのは永遠に(ad æternum)である。」(p.157)ここでは、多義的な現実が無限への移行によって、一定の言語的命題として表現されることが示されている。一端言語的に得られた認識は一つの事実性となり、我々が寝てるときにも仕事に没頭しているときにもそれは事実であり続ける。それはいつでも記憶から取り出されて現前し得るのであり、その現前が身体的兆候と共に情動を喚起するのである。
5、情動が発生する二つのプロセス
これまでは、情動は主体が世界を不合理な仕方(魔術的な仕方)で生きようとする行為として説明されてきた。しかし、『情動論粗描』の最後でサルトルは、世界がそれ自身において魔術的な様相を見せることによって情動が生じるプロセスを説明している。
「既述したように、情動にあっては、意識は退化し、私たちの生きている既定の世界を、急に魔術的な世界に変えるものだ。ところが、その逆の場合もあるもので、つまり、予期していたのに、この世界そのものの方が、ときとして意識に魔術的なものとしてあらわれるのである。」(p.159)状況というものは、意識の自発性と事実性の両方によって規定されるものである。この場合は、事実性の方が突然魔術的に自らを現す。そうなると、自らの慣れしたんだ世界から突然振り落とされた意識は、突然現れた魔術的な状況に対処する合理的な方法を把握するまで、魔術的に反応(行為)するしかない。世界内存在の二つの在り方と情動の生じる二つのプロセスをまとめると、次のようになる。
世界内存在ー道具的世界
ー魔術的世界ー意識による魔術的世界の投企
ー事実性による魔術的世界の現出
引用文献
J-P・サルトル(2000)『自我の超越 情動論粗描』(竹内芳郎訳)人文書院
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