今回の記事では、キルケゴールの『哲学的断片』(1844)の間奏曲における時間論を読解する。『哲学的断片』は、イエスが存在したという事実の伝達とその信仰を中心テーマとする著作である。従って、その時間論も、過去への関係に主な焦点が置かれている。
1、生成という概念
最初にまず、生成という変化はどのような変化であるかが論じられる。生成は、内容ではなく存在が変化する(非存在ー存在)、変化を支える基体が存在しない、という二点の主な特徴を有しており、その点で他の概念への移行としての一般的な変化から区別される。
生成:存在:可能性ー現実性:原因
他の概念への移行:本質:必然性:理由
可能性:非存在
現実性:存在
必然性:本質
2、永遠、自然、過去のもの
3、ヘーゲル批判としての歴史概念
キルケゴールが歴史的なものを生成したものとして規定していることは、ヘーゲルの歴史概念に対する真っ向からの批判となっている。ヘーゲルにおいては、歴史とは理念の必然的な自己運動の現れである。そこでは、キリスト教の成立もフランス革命も、起こるべくして起こったことになっている。生成が本質ではなく存在の変化であり、理念の弁証法とは別の変化とされた以上、生成によって規定される歴史はヘーゲル的な歴史観との決別を意味する。
このことは最も分かりやすく言えば、現実に起こる出来事は認識に対して偶然的なものとしてしか現れない、というごく常識的な見方を意味している。現実の出来事がヘーゲルが論じたような概念の自己運動の現れ(精神の現象、具体化)であるのか、それを確認するすべはない。だからこそ、生成の偶然性(不確実性)は主体の側から補われて初めて、歴史的なものとなるのである。
4、現在のものの歴史性と過去のものの歴史性
直接的知覚や直接的認識は確実なものであり、それ故歴史的なものではない。
6、フッサール、ハイデガー、サルトルとの関係
『哲学的断片』のこの箇所には、約100年後に現象学として展開される哲学における本質的な思考のほぼ全てが既に先取りされている。前述の引用で直接的的知覚への徹底的な準拠と懐疑論的な姿勢は、フッサールの現象学的還元に通じるものである。ハイデガーは、存在者を認識論的に構成するフッサールの志向性に対して、存在者を開示する現存在を関心という実践的な概念で規定した。フッサール的な地平はその比喩通り、地平性のように限界を持たない。その点で、絶対的な明証性を約束しない。この不十分な明証性を補うものがキルケゴールにおける信仰であり、彼においても信仰は認識ではなく、意志の表明という実践的な行為であるとされている。
引用文献
キルケゴール(1963)『キルケゴール著作集6』(大谷愛人訳)白水社
1、生成という概念
最初にまず、生成という変化はどのような変化であるかが論じられる。生成は、内容ではなく存在が変化する(非存在ー存在)、変化を支える基体が存在しない、という二点の主な特徴を有しており、その点で他の概念への移行としての一般的な変化から区別される。
「可能性と現実性とは、本質においてではなく、存在において相違している。ところが、必然的なものの本質は存在するということであるから、必然性は存在の規定ではなく本質の規定である。」(p.153)このような生成は、存在における変化であり、可能性から現実性への移行である。この移行は自由としての原因によって起こる。他方で、他の概念への移行は本質における変化であり、必然性の内で起こる移行である。この移行は、論理的な弁証法における理由によって起こる。
生成:存在:可能性ー現実性:原因
他の概念への移行:本質:必然性:理由
「ところが、非=存在と呼ばれる存在とは、つまり可能性のことである。また、存在となっているところの存在とは、つまり、現実にある存在、すなわち現実性のことである。」(p.151)それぞれの様態には、非存在、存在、本質が対応している。
可能性:非存在
現実性:存在
必然性:本質
2、永遠、自然、過去のもの
「生成したものはすべて、そのことだけで(eo ipso)歴史的なものなのである。」(p.157)生成したものは、歴史的なものであり、過去的なものとなる。しかしこの点、永遠と自然は特別な立場にある。永遠の内では生成は起こらないため、歴史を持たない。自然は歴史を持つが、過去を持たないという中間的な規定を持っている。なぜなら、自然においては生成が起こるが、自然そのものは時間との弁証法的な関係に入らないからである。
「しかし歴史的なものは過去的なものである(なぜなら、現在は未来との境界線上にあり、そのためいまだ歴史的とはなっていないから)。」(p.158)
「生成はそれ自らの中に二重性を含んでいる。つまり、それは、それ自身の生成の内部に生成の可能性を含んでいる、という事実である。ここに、時間と弁証法的な関係にはいっているところのいっそう厳密な意味での歴史的なものが存在しているのである。」(p.159)
「過去のものの不可変性は、すでに述べたように、それを起こさしめたところのあのすでに起こったところの変化〔生成の変化〕との関係において弁証法的であるが、さらに、その不可変性を止揚するよりいっそう高度の性格をもった変化との関係においてもまた弁証法的でなければならないからである。(たとえば、実際に起こったことをなかったことにしてしまおうとする後悔の不可変性がそうである。)」(p.161)人間にとって生成したものは、歴史的で、過去的なものである。生成した歴史的なものは過去のものとなり、未来の時点に対して新たな生成の可能性として自らを示す。このように、現在を生きる人間にとって過去のものとなる歴史が、いっそう厳密な意味での歴史的なものである。
3、ヘーゲル批判としての歴史概念
キルケゴールが歴史的なものを生成したものとして規定していることは、ヘーゲルの歴史概念に対する真っ向からの批判となっている。ヘーゲルにおいては、歴史とは理念の必然的な自己運動の現れである。そこでは、キリスト教の成立もフランス革命も、起こるべくして起こったことになっている。生成が本質ではなく存在の変化であり、理念の弁証法とは別の変化とされた以上、生成によって規定される歴史はヘーゲル的な歴史観との決別を意味する。
このことは最も分かりやすく言えば、現実に起こる出来事は認識に対して偶然的なものとしてしか現れない、というごく常識的な見方を意味している。現実の出来事がヘーゲルが論じたような概念の自己運動の現れ(精神の現象、具体化)であるのか、それを確認するすべはない。だからこそ、生成の偶然性(不確実性)は主体の側から補われて初めて、歴史的なものとなるのである。
4、現在のものの歴史性と過去のものの歴史性
直接的知覚や直接的認識は確実なものであり、それ故歴史的なものではない。
「自然現象とかあるいは何かのできごとの直接的印象は歴史的なものの印象ではない。なぜなら、直接的に知覚されうるのは生成ではなくて、現にそこに在るものだけだからである。」(p.170)歴史性が直接的知覚から生成する際の不確実性は、現在においても過去においても等しく存在する。
「現在のものについての知識は現在のものになんら必然性を与えるものではない。未来のものの予知も未来のものになんら必然性を与えない(ボエティウス)。そのように、過去のものについての知識も過去のものになんら必然性を与えないのである。」(p.166)直接的なものが生成において持つ不確実性が、信仰において止揚されて初めて、そこに歴史的なものが成立する。これは、歴史的なものとなるところの直接的なものが、今目の前にある場合も、過去のものである場合も、同様である。従って、歴史性に関しては、それが歴史的になる時点に応じて、次のような二つの表現をすることが可能である。すなわち、過去に歴史的になった過去のものの歴史性と、現在において歴史的になった現在のものの歴史性である。
「しかしこの現在のものの歴史性とは、それが生成したということであり、過去のものの歴史性とは、それが生成したことによってかつては現在のものであったということである。」(p.178)ここから、キルケゴールにおける過去の議論における最も重要な帰結が出てくる。それは、過去に歴史的になったものも、現在においては非歴史的なものとして現前するということである。過去には現実的であったものも、時間との弁証法的な関係の中で、現在においては常に可能性として現前する。なぜなら、過去のものも含めて、あらゆるものの端的な客観性や必然性は人間には認識できないものであり、その現実性は認識ではなく信仰において、常に今この瞬間を生きる人間から与えられるからである。
「後代の者は、もちろん同時代者の証言によって信じようとするわけであるがそれは、ちょうど同時代者が直接的知覚と直接的認識とによって信じようとしたのと同じ意味においてなのである。けれども、同時代者は、それらによってはけっして信ずることができないのと同じように、後代の者も報知によってはけっして信ずることはできないのである。」(p.179)
6、フッサール、ハイデガー、サルトルとの関係
『哲学的断片』のこの箇所には、約100年後に現象学として展開される哲学における本質的な思考のほぼ全てが既に先取りされている。前述の引用で直接的的知覚への徹底的な準拠と懐疑論的な姿勢は、フッサールの現象学的還元に通じるものである。ハイデガーは、存在者を認識論的に構成するフッサールの志向性に対して、存在者を開示する現存在を関心という実践的な概念で規定した。フッサール的な地平はその比喩通り、地平性のように限界を持たない。その点で、絶対的な明証性を約束しない。この不十分な明証性を補うものがキルケゴールにおける信仰であり、彼においても信仰は認識ではなく、意志の表明という実践的な行為であるとされている。
「信仰とは、認識ではなくて自由の=行為であり、意志の=表明である。信仰とは生成を信ずることであり、それゆえ非存在の非存在性に対応するところの不確実性を自らのうちに止揚しているのである。」(p.174)サルトルは絶えざる脱自である人間が、自らを事物のように認識することを自己欺瞞という概念で表し、自己欺瞞は信仰であると規定した。キルケゴールもこの虚偽を扱っており、"誤解をなしとげる"という表現で、この虚偽に基づいた信仰を一種の積極的な行為として記述している。
「過去のものを、それを構成することによって完全に理解したつもりでいるそのような過去のものの把握というものはすべて、ただ完全に誤解をなしとげたということを意味しているにすぎない。」(p.166)
引用文献
キルケゴール(1963)『キルケゴール著作集6』(大谷愛人訳)白水社
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