今回の記事は、キルケゴールの『不安の概念』第三章に関する研究メモを書いておく。
1、概要
最初に、時間が抽象的な無限な継起として規定され、現在的なもの・瞬間・永遠的なものと区別される。次に、時間と永遠の瞬間における綜合として、時間性が示される。過去・現在・未来といった区別は、この綜合によって初めて成立する。最後に、『不安の概念』全体の議論と時間論が関連付けられ、時間性における永遠の可能性としての未来への関わりが不安として規定される。
2、瞬間の規定における矛盾
『不安の概念』のこの箇所には、瞬間の規定において一見矛盾しているように見える部分がある。
3、永遠、瞬間、現在の区別
永遠、瞬間、現在は、抽象的な継起としての時間との対立において、ほぼ同義に用いられているように見える。しかしそこには区別がある。
4、未来と永遠
過去、現在、未来という区別は時間と永遠の綜合から時間性が措定されて初めて成立する。瞬間がどのように捉えられるかに従って、永遠が意味するものも変わってくる。瞬間が正しく捉えられて初めて、永遠は過去と現在と未来の全てを意味するようになる。しかし、未来には永遠との関係において、一種の優位があるとキルケゴールは述べる。
5、永遠の可能性としての未来
ここまでではまだ瞬間が境界として措定されるとはどうこうことなのか、永遠の仮装とはどういうことなのか、いまいちはっきりしない。しかし、次の一文は永遠の仮装という表現についての一つの説明になっている。
6、ハイデガー、サルトルの時間論との差異
キルケゴールにおいては、時間と永遠が瞬間において綜合され、時間性が成立する。可能性としての永遠に関わる生きられる時間が時間性であり、我々が普段過去や現在、未来と呼んでいる規定は、抽象的な時間ではなく時間性に属する。
時間と時間性の区別は、ハイデガーにおいては通俗的時間概念と時間性として、サルトルにおいては心的な時間性と根源的な時間性として、引き継がれている。しかし、両者とキルケゴールの間には二つの重要な相違を見て取ることができる。
一つ目は、キルケゴールにおいては永遠との綜合を通して時間から時間性が成立するのに対して、ハイデガーとサルトルにおいては、時間はむしろ時間性から派生的に成立するものと見られている点である。恐らくこの差異は、ハイデガーとサルトルが現象学的視点をとるようになったことと関係があるだろう。
二つ目は、キルケゴールにおいては永遠という概念が時間性の成立において重要な意義を持っているのに対して、ハイデガーとサルトルにおいては時間性は過去と現在と未来の脱自的地平から時熟(時間化)するのであって、永遠という概念は用いられない点である。我々は永遠という概念が捨て去られたことによって、何か重要な観点が見失われていないか、今一度検討する必要がある。
永遠は単なる幸福の一つではなく、あらゆる幸福を可能にするところの浄福を表している。このような永遠を保証する神の一瞥という意味で、瞬間の中には永遠が賭けられている。この神を母に置き換えれば、精神分析的思考が帰結する。神学でもなく、精神分析でもなく、第三の道を探すことー
まとめ
昔は『不安の概念』のこの箇所を読むとき、なぜ永遠が現在と同義のものとして扱われているのか、なぜ永遠が抽象的な時間の中に入り込む必要があるのか、よく分からなかった。今考えると、永遠とは神との間の実践的な関係を意味している。無味乾燥な抽象的継起としての時間は、この永遠と関連付けられて初めて、過去は咎として、未来は審判として、現在は神による試練として、救済への関心において特別な意味を持ってくるのである。このような実践的な関心の元、生きられる時間が時間性である。
引用文献
キェルケゴール(1951)『不安の概念』(斉藤信治訳)岩波書店
1、概要
最初に、時間が抽象的な無限な継起として規定され、現在的なもの・瞬間・永遠的なものと区別される。次に、時間と永遠の瞬間における綜合として、時間性が示される。過去・現在・未来といった区別は、この綜合によって初めて成立する。最後に、『不安の概念』全体の議論と時間論が関連付けられ、時間性における永遠の可能性としての未来への関わりが不安として規定される。
2、瞬間の規定における矛盾
『不安の概念』のこの箇所には、瞬間の規定において一見矛盾しているように見える部分がある。
「瞬間はいかなる過去的なるものをも未来的なるものをももたぬところの現在的なるものそのものを意味している。」(p.152)瞬間は一方で、過去も未来も持たないものとして規定され、他方では、過去も未来も持たないものとして規定すれば誤りとなるとされている。この矛盾は、瞬間は永遠に属するものとして過去も未来も持たないのだと解釈すれば、解消される。過去も未来も持たないのは、時間だけでなく、永遠の特徴でもある。「永遠的なるものにおいてもまた過去的なるものと未来的なるものとの区別は見出されえない、なぜというに現在的なるものはいまや止揚された継起として措定されているからである。」(p.151)
「ひとが瞬間の概念にたよって時間を規定しようとする場合、瞬間のもとに、過去的なるものと未来的なるものとの純粋に抽象的な排除を、そういう意味での現在的なるものを、理解しようとするとしたら、瞬間とはまさしく現在的なるものではなくなるのである。」(p.152)
3、永遠、瞬間、現在の区別
永遠、瞬間、現在は、抽象的な継起としての時間との対立において、ほぼ同義に用いられているように見える。しかしそこには区別がある。
「瞬間はいかなる過去的なるものをも未来的なるものをももたぬところの現在的なるものそのものを意味している。」(p.152)これらの文から、永遠も瞬間も現在的なるものに属することは分かる。しかし、永遠と瞬間は同一の概念ではない。瞬間は時間と永遠を綜合するものであって、永遠だけでなく時間にも関わる二義的な概念である。瞬間は永遠そのものではなく、永遠のアトムであって、時間における永遠の反映である。
「永遠もまたいかなる過去的なるものをも未来的なるものをももたぬところの現在的なるものである、そうしてこれが永遠の完全性なのである。」(p.152)
4、未来と永遠
過去、現在、未来という区別は時間と永遠の綜合から時間性が措定されて初めて成立する。瞬間がどのように捉えられるかに従って、永遠が意味するものも変わってくる。瞬間が正しく捉えられて初めて、永遠は過去と現在と未来の全てを意味するようになる。しかし、未来には永遠との関係において、一種の優位があるとキルケゴールは述べる。
「かかる区別において直ちに気づかれることは、或る意味においては未来的なるものが現在的なるものや過去的なるものよりもより多くを意味しているということである。」(p.156)未来は、過去や現在をも含んだ一種の全体を意味する。しかし、未来が永遠であるというのは間違いで、未来は永遠の仮装に過ぎない。瞬間が境界として、不十分な仕方で措定される場合、未来がそのまま永遠となってしまう。
「未来的なるものとは、本来時間と質を異にしているところの永遠的なるものが、しかも時間とおのが関係を保とうとする場合にとるところの仮装なのである。」(pp.156-157)
「瞬間は措定せられるが、但しそれが単に境界としてである場合には、未来的なるものが永遠的なるものである。」(p.158)
5、永遠の可能性としての未来
ここまでではまだ瞬間が境界として措定されるとはどうこうことなのか、永遠の仮装とはどういうことなのか、いまいちはっきりしない。しかし、次の一文は永遠の仮装という表現についての一つの説明になっている。
「(前章によれば)精神は、それが綜合において措定せられようとする場合あるいはむしろそれがこの綜合を措定しようとする場合、精神の(即ち自由の)可能性として個体のなかでは不安として自己を顕わにしたのと全く同様に、ここでは未来的なるものは永遠的なるものの(即ち自由の)可能性として個体のなかでは不安となる。」(p.160)ここでは永遠、つまり救済が確実なものとしてではなく、単なる可能性に過ぎないものとして未来が語られている。ここから、境界としての瞬間とは、確定している未来に対しての、無関心的な在り方と解釈することができる。可能性としての永遠に対する瞬間が時間性において持つ意義は、次の一文に象徴的に表されている。
「もしも私が刑罰の故に不安を抱いているとしたら、そのことは、私がこの刑罰を咎との弁証法的な関係のなかに描く場合のみ可能なのである(そうでない場合には、私は私の刑罰を身にひき受けるであろう)、ところでその場合には、私は或る可能的なるもの・未来的なるものに関して不安を抱いているのである。」(p.162)刑罰は咎から予測される可能性であるため、私は不安を感じる。もし刑罰が確定しているのであれば、恐怖は感じても不安は感じないだろう。未来が時間性において持つ意義は、このような可能性への実践的な関心にある。そして、過去が時間性において持つ意義は、このような可能性を生み出し予測させるということにあるのである。
6、ハイデガー、サルトルの時間論との差異
キルケゴールにおいては、時間と永遠が瞬間において綜合され、時間性が成立する。可能性としての永遠に関わる生きられる時間が時間性であり、我々が普段過去や現在、未来と呼んでいる規定は、抽象的な時間ではなく時間性に属する。
時間と時間性の区別は、ハイデガーにおいては通俗的時間概念と時間性として、サルトルにおいては心的な時間性と根源的な時間性として、引き継がれている。しかし、両者とキルケゴールの間には二つの重要な相違を見て取ることができる。
一つ目は、キルケゴールにおいては永遠との綜合を通して時間から時間性が成立するのに対して、ハイデガーとサルトルにおいては、時間はむしろ時間性から派生的に成立するものと見られている点である。恐らくこの差異は、ハイデガーとサルトルが現象学的視点をとるようになったことと関係があるだろう。
二つ目は、キルケゴールにおいては永遠という概念が時間性の成立において重要な意義を持っているのに対して、ハイデガーとサルトルにおいては時間性は過去と現在と未来の脱自的地平から時熟(時間化)するのであって、永遠という概念は用いられない点である。我々は永遠という概念が捨て去られたことによって、何か重要な観点が見失われていないか、今一度検討する必要がある。
永遠は単なる幸福の一つではなく、あらゆる幸福を可能にするところの浄福を表している。このような永遠を保証する神の一瞥という意味で、瞬間の中には永遠が賭けられている。この神を母に置き換えれば、精神分析的思考が帰結する。神学でもなく、精神分析でもなく、第三の道を探すことー
まとめ
昔は『不安の概念』のこの箇所を読むとき、なぜ永遠が現在と同義のものとして扱われているのか、なぜ永遠が抽象的な時間の中に入り込む必要があるのか、よく分からなかった。今考えると、永遠とは神との間の実践的な関係を意味している。無味乾燥な抽象的継起としての時間は、この永遠と関連付けられて初めて、過去は咎として、未来は審判として、現在は神による試練として、救済への関心において特別な意味を持ってくるのである。このような実践的な関心の元、生きられる時間が時間性である。
引用文献
キェルケゴール(1951)『不安の概念』(斉藤信治訳)岩波書店
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