サルトルは存在と無の第四部第一章で自由について主題的に論じている。自由な行為を説明する際に重要となるのが、動機、動因、意志という概念である。今回はこの三つの概念について書いていく。

自由
 自由が問題となるとき、よくとられる立場が、非理性的で隷属的な情動と、理性的で自由な意志を対立させる見方である。このような見方は、プラトンやストア派哲学によく見られ、ほぼそのままの形で近代の哲学や、心理学における認知療法の前提に引き継がれている。
 しかし、サルトルによれば、意志は決して自由の純粋な表現ではないし、情動もまた不自由な現象というわけでもない。意志と情動は、自由が措定した目的を達成する手段の違いに過ぎず、両者共に、目的を措定する自由を前提している。
 また、サルトルは情動に不自由を認める見方を否定したからといって、不自由で機械的な過程を否定しているわけではない。次の一文は、この間の事情を分かりやすく説明している。「一つの無化的な自発性がメカニックな諸過程とのあいだにもちうる唯一のきずなは、それらの存在者から出発して、内的否定によって、みずから自己を生ぜしめることである。」(p.42)
 すなわち、我々は人と世界の関わりにおいて、三つの契機を区別しなければならない。まず最初に、機械的な諸過程を含んだ純粋に即自的で無差別的なものがある。次に、自己性の回路を持つ対自的存在者(自由)が即自的なものに関わる。その結果、対自の自己が有する超越論的な構造(世界)に従って、即自的なものから個々の存在者が、否定(無化)によって切り取られ、区別され、意味づけられ、措定される。動機や動因、意志といった心理学的概念を深く理解するためには、こうした構造を把握しておく必要がある。

意志
 意志は、目的に基づいた手段として、情動と等価な、世界への関わり方の一つである。サルトルはこのことを示す例として、危険な状況からの逃亡を描写している。情動的な逃亡においては、人は危険な状況から、混乱した仕方で一目散に逃げることだけを考える。それに対して、意志的な逃亡においては、人はその場に留まることとそこから離れることの諸々の結果を勘案し、諸々の手段を考慮しながら逃亡する意志決定をすることになる。どちらの逃亡も、危険を回避するという目的は共通しているのであって、意志的な行為と情動的な行為はどちらも、その目的を達成する手段の違いに過ぎないのである。ここで重要なのは、目的を措定する自由と、措定された目的を最も合理的な仕方で達成しようとする意志の区別であって、自由それ自体は意志決定ではなく、意志決定にその基準、前提を提供するものである。
 また、意志決定は問題解決における合理的な手段であるから、その勘案において、諸々の超越された存在者を必要とする。全く無差別的な状況では、人は考えることができない。そのため、そもそも自分は何がしたいのか、何を達成しようとしているのか、という自己への反省的、措定的な超越を必要とする。従って、意志は超越された自己としての動機や動因に従属する。こうした意味で、意志は反省的な次元での自己の取り戻しを含んでいる。
 心理学との関係において、意志決定を援助するというプロセスは様々な心理療法に含まれている。しかし、サルトルの意志に関する考察はそうした理論の限界をも明かすように思われる。つまり、単なる意志決定を援助するのではなく、意志決定の根拠となるものに介入する心理療法があり得るだろう。意志は目的に基づいているのだから、まず、意志決定の際に基準となる諸々の感情、動機がこの目的とどのような関係にあるのかを明らかにするアプローチ、次に、この目的自体が自由の次元においてどのような時間化によって成り立っているのかを明らかにするアプローチが考えられる。

動機
 動機の定義。「われわれは或る一定の状況についての対象的な把握を動機と呼ぶことにするが、ただしそれは、この状況が、或る一つの目的の光に照らして、この目的に到達するための手段となりうるものとして、あらわれるかぎりにおいてである。」(p.52)
 サルトルは動機及び動因を、クローヴィスの改宗を例にして論じている。クローヴィスはフランク王国の王であり、キリスト教に改宗したことによってキリスト教会やローマ系住民の政治的支持を得たというエピソードが有名である。この場合、改宗の動機は、ガリアの地を征服するという目的との関係において、改宗が政治的な利益をもたらすということにある。このように、動機はある目的との関係における合理的勘案によって導かれる。従って、動機は目的の措定を前提するものであって、合理的秩序の無化的超越として、自由に従属するものである。サルトルによれば、ガリアの地を征服するという目的自体は、それが手段として働くようなさらに上位の目的を持っておらず、動機とはいえない。
 心理学的な観点からは、動機ときっかけを区別することが重要となるだろう。ガリアの地を征服するという目的を説明するさらなる目的はないが、そういう目的を志すことになったきっかけというものはあり得る。こうしたきっかけが影響力を持つのは、それが個人の歴史性において重要な意義を持つものとして編成されることによってである。きっかけについて、キルケゴールの『あれかこれか』所収の「初恋」序文、あるいはドゥルーズの出来事の哲学をつきあわせていつか考えてみたい。

動因
 サルトルにおいて動因は、ある両義性を持ったものとして扱われている。「したがって動因はー一般に、私のもろもろの思い出がそうであるようにー私のものとしてあらわれると同時に、超越的なものとしてあらわれる。」(p.60)
 一方では、動因は自由の働きそのものである。先程のクローヴィスの例で言えば、動因はガリアの地を征服するという目的そのものとなる。動因はある目的意識として、手段となる様々な対象との関わりを可能にするものであって、動機一般を方向づける。サルトルの「動機と動因は相関的である」(p.58)という文は、このような動機が有する動因への従属的な関係を意味している。
 しかし他方では、動因は心理学的な対象として、超越された即自でもある。心理学者は様々な感情や欲動の対立や合成によって、行為を説明する。この場合、個々の感情や欲動は恒常的で自立した実在として前提されている。しかし、実際には人間はその自由な側面において変わっていくものであるし、個々の感情や欲求を過去のものとして相対化することができる。行為とはこのような自由が措定した目的に向けられるものであって、心理学的な感情や欲動は行為を説明するものというよりは、むしろそこから個々に抽象されたものでしかないのである。このような即自としての動因は、理知的な認識作用によって措定される実在として、動機と同じ性質を持つ。「動因は即自であり、動機は対象的なものであるから、この両者は、存在論的な差異をもたない一対として、あらわれる。」(p.60) 対象的に把握された心理的実在はプシュケーという名のもとで、他の箇所(『存在と無』第2部第2章末尾)でも考察されている。
 心理学的な観点から見ると、心理学的実在は、ただ単に抽象されたものに過ぎないからといって、存在しないわけではないだろう。心理学的実在は自己欺瞞的な認識によって誤って措定される場合もあるし、個人の実存的な特殊性に根ざしたものでしかない場合もあるが、科学的な一貫性を持って措定されれば、人間一般が有する心理学的要素として実在すると見なすことができる。しかし、こうした心理学的実在は、常に個人の歴史性の中で意味づけられるのであって、そのまま行為を規定することはない。このような心理学的要素は、自由との関係においては、無化的な自発性がそこから出発するところの存在者であるといえる。

文献
ジャン=ポール・サルトル(2014)『存在と無 Ⅲ』(松浪信三郎訳)筑摩書房