今回の記事では、現代の現存在分析の最も代表的なアプローチである、解釈学的現存在分析について概説する。

クンツについて
 クンツは1943年にスイスに生まれ、1971年に「想起と忘却」という論文で哲学と歴史学の博士号を取得している。彼女はその後すぐ、心理療法と精神身体医学のための現存在分析協会(Daseinsanalytic Institute for Psychotherapy and Psychosomatics)に入り、ボスと関わりを持つようになる。しかし1975年にはその学会を脱退し、解釈学的人類学と現存在分析のための協会(Society for Hermeneutic Anthropology and Daseinsanalysis)と呼ばれることになる新たな協会を設立する。クンツが理論化した解釈学的現存在分析は、ビンスワンガー、ボスに続く第三の現存在分析として独自の意義を持つものとみなされるようになってきている。

ビンスワンガー、メダルト・ボスの現存在分析との相違
 クンツはボスの現存在分析に満足できなかったことから、新たな学会を設立し、解釈学的現存在分析という新たな理論を提唱することになった。それでは、ボスの現存在分析とクンツのそれとでは、どのような点が異なるのだろうか。この問題はフロイトの精神分析とハイデガーの哲学への関わり方から、より明確にすることができる。
 フロイトの精神分析に対して、ビンスワンガーは現存在分析という独自の立場を築き、ボスは精神分析的理論を率直に否定する傾向にあった。それに対してクンツはフロイトの精神分析理論を実存論的な観点から解釈するという道を選んでいる。
 ハイデガーの哲学に関しては、ビンスワンガーはそれに独自の変更を加え、ボスは後期ハイデガー哲学に忠実な理論を築いた。それに対してクンツは『存在と時間』を最も基本的なテクストとして、前期ハイデガー哲学に基づいてその理論を築き上げた。
 このようにフロイトの元々の精神分析と前期ハイデガー哲学を重視したことが、フロイトによる症状の解釈とハイデガーによる実存の解釈学的分析の統合を可能にし、解釈学的現存在分析として結実したのだと考えられる。

解釈学的現存在分析
 クンツの解釈学的現存在分析の理論においては、存在論的問題と存在的問題を区別する存在論的差異が常に重要な役割を果たしている。ここではまず、この存在論的問題と存在的問題の関わりから見ていき、その葛藤が神経症の原因としてどのように働くのか、解釈学的現存在分析はそれにどのように介入するのかについて概説する。
前存在論的含意
 クンツは、我々の日常生活での存在的な行動や経験には、前存在論的含意(pre-ontological inclusion)が伴っていると指摘する。例えば、我々は胃痛を感じたとき、それをただ不快だと思うだけではなく、医者にいった方がいいかどうかをすぐ考慮することができる。そうすることができるのは、我々が胃痛を存在的に認識しとき、胃痛は何かの病気の症状である可能性があることや、そうした病気は医者に行けば診断、治療してもらえることをあらかじめ前存在論的に了解していたからである。
存在論的不安
 前存在論的含意にはこのように日常のあらゆる経験や行動に伴っているという特徴があるが、同時にこの含意は危険なものでもある。先の例でいうと、胃痛はただ病気の症状であるだけでなく、最悪の場合には死にいたる病気の症状である可能性もあるのである。存在論的な理解は、このような死の必然性や、人間の選択の有限性、絶対的な保護者や神はいないという孤独といった、事実でありながらも根底的に不安を呼び起こすものへの理解を含んでいる。
常識への参加としての頽落
 存在論的な理解は本質的に不安を呼び起こすものであるにも関わらず、それは日常におけるどのような行動や思考にも前存在論的に含意されている。従って、その不安はうまく隠されなければならない。クンツはハイデガーが頽落、非本来性として示した世間への自己喪失を、存在論的な不安からの保護としての機能を持つポジティブなものとして捉え直し、常識への参加(participation in common sense)と呼んでいる。常識への参加はそれ自身肯定的な健康状態であり、後述する特別な感受性を持っていない場合は、克服されるべきものではないとされている。
特別な感受性
 一般的な人において存在論的な不安は世間的な常識によってごまかされているものの、中にはそれに気づいてしまう人もいる。クンツはこのような人を特別な感受性(special sensitivity)を持った人と呼び、神経症者の苦悩の本質を自分自身の存在による苦しみ(suffering for one's own being)として規定している。死や老いの必然性や可能性の有限性、依存できる保護者の不在といった存在論的真理は、人が人として存在する以上逃れられない苦悩であり、それが特別な感受性によって日常に侵入してくることによって、神経症が起こるのである。ハイデガーは現存在の在り方として本来性と非本来性を区別したが、不安をごまかすことができず、かといってそれと向き合うこともできない神経症は、クンツによって非本来性と本来性の間の第三の様態に位置づけられている。
症状の現存在分析的意味
 特別な感受性によって存在論的な経験が日常に入ってくるとき、人はその不安を存在的な特定の恐怖として対処しようとする。例えば、必然的に訪れる死に対する不安を、病気への恐怖として理解し、健康になるための異常なまでの努力によって対処しようとする。解釈学的現存在分析では、不安と欲望(desire)は存在論的なものに、恐怖と願望(wish)は存在的なものに属し、無意識はサルトルの自己欺瞞論によって説明されている。存在論的な不安から解放されたいという欲望は、自己欺瞞としての無意識的試みによって、存在的な日常における恐怖と願望として回帰するのである。
症状に隠された存在論的真理の解釈
 現存在分析では、患者の症状がどのような存在論的真理に対する、どのような対処の仕方であるのかを、哲学的に解釈する。この解釈によって、患者は症状としての行動化では存在論的な条件は変えられないということに気づき、無為な行為として症状を手放すことができるのである。解釈学的現存在分析の目標は、特別な感受性を持っているために存在論的な真理に気づいてしまう気の進まない哲学者(reluctant philosopher)から、哲学的に経験される人間存在(philosophically experienced human being)へと患者を変えることにある。


解釈学的現存在分析に関する私見
 ビンスワンガーやボスの現存在分析に対してクンツは、ハイデガーが死や無性といった形で記述した存在論的領野の負の側面を強調することによって、存在論的領野と存在的領野の対立を描くことを可能にした。その対立への考察は、サルトルの自己欺瞞としての無意識概念を介した精神分析的なバックボーンの元でさらに深められている。既にビンスワンガーにおいても人間の有限性から逃れようとする傾向は上昇という概念で表されていたが、それをこのように現存在分析の根本問題として優れた形で理論化したのはまさにクンツの功績といえるだろう。
 クンツの解釈学的現存在分析に関する文献を読んでいてまず気になったのは、ラカン派の精神分析との類似点である。特に60年代のラカン理論では、現実界は危険な領野とされ、それは想像界と象徴界で構成されるファンタスムによって隠蔽されなければならないものである。これはまさにクンツが存在論的な不安が存在的な次元における常識への参加によって隠蔽されなければならないとしたのと相似しているといえるだろう。両者が決定的に異なるのは、その分析の目標にある。クンツは患者が特別な感受性を持っている以上、存在論的な真理はごまかすことができないが、しかし耐えられるものでもあるとして、まさにそれを患者に気づかせようとするのに対して、ラカン理論では、解釈において疎外と分離の地点まで遡っていくものの、最終的に目指されるのはファンタスムの横断である。要するに、ラカン理論では、人は基本的に存在論的な真理=現実界の中にいることは耐えられないことであるから、それは隠蔽されなければならないのであり、問題となるのはその隠蔽の在り方にあるわけである。この点に関しては、クンツは唯物論的精神医学を提唱したドゥルーズ=ガタリと近い位置にある。ドゥルーズ=ガタリはラカン派理論の中にある父や母といった包括的人物象やファルスという完全対象を誤謬として除外し、徹底的に部分対象=機械をその理論の中心に据えたのであった。これはまさに、ラカンが主体を空想の中に位置づけるために構築した概念群を放棄して、主体を徹底的に現実の中で考えることを意味している。クンツとドゥルーズ=ガタリは、人が残酷な現実の中で生きる可能性を模索しているという点で共通するものがあるのである。しかし、クンツは存在論的な不安に関しては多くの重要な考察を残しているものの、人が存在論的な領野でどのようなことを望み得るのか、という点に関してはあまり述べていないように見える。願望と区別される意味での欲望は、単に存在論的な不安から逃れたいという消極的な意味でしか考察されていない。その点ではドゥルーズ=ガタリの方が、生産の三つの綜合や社会的生産と欲望的生産とのつながりを考察した点で、より具体的で内容のある理論を持っているように思える。
 最後に、ストロロウなどの間主観的アプローチの精神分析と実証心理学との関係についても見ていきたい。クンツはその著書の中で間主観学派の精神分析について意見を表している。いわく、間主観学派が従来の正統的精神分析についてとる立場には賛成できるが、彼らがフロイトの元来の実践的技法、自由連想法や禁欲原則、平等に漂う注意、を批判する場合は賛成できない、といったことを述べている。もちろん、これらのフロイトの実践技法は現存在分析的な観点から再解釈されてはいるのだが、結果として精神分析である間主観的アプローチよりも解釈学的現存在分析の方がフロイトの精神分析に近いものになっているのは、中々面白いことだと感じた。これは、経験によって次々に理論を書き換えていく心理学と先達のテキストを最大限尊重して解釈していく哲学の風土的違いから来るものだろうか。ラカンも「フロイトへ帰れ」と主張し、フロイトのテキストを最大限尊重したのであった。
 クンツの解釈学的現存在分析は、存在論的な真理を心理的問題の根本的な要因に置いた精神分析といえる。これはフロイトが性的なものに、アドラーが劣等感に、様々な論者が様々な根本的要因を置いたのと対応している。しかし、クンツの理論はエビデンスベイスドアプローチの観点から見ても大きな有意性がある。なぜなら、死の恐怖が迫ってきたときに、人がいかに特異な反応をとるかということに関しては、キューブラー・ロスによって実に克明に描かれた質的研究があるし、人が死の恐怖に対して特別な心理的防衛を行っているということに関しては、恐怖管理理論による実に優れた量的研究があるからである。

参考文献
Alice Holzhey-kunz.(2014).Daseinsanalysis(translated by Sophie Leighton).Free Assn Books.
Holzhey‐Kunz, A. (2019). Philosophy and Theory: Daseinsanalysis–An Ontological Approach to Psychic Suffering Based on the Philosophy of Martin Heidegger. The Wiley World Handbook of Existential Therapy, 55-67.
Craig, E., & Kastrinidis, P. (2019). Method and practice: daseinsanalytic structure, process, and relationship. The Wiley World Handbook of Existential Therapy, 68-82.
Craig, E., Daws, L., Georgas, T., & Stolorow, R. D. (2019). Challenges and New Developments. The Wiley World Handbook of Existential Therapy, 110-126.