死の不安というテーマを中心に扱う臨床実践は、ターミナルケアのような特殊な分野を除いて、ほとんど前例がない。そのため、実践に必要な臨床的理論を既存の学問的知識も用いながら、一から築いていかなければならない。今回は、そうした理論構築の一端として、死の不安のアセスメントについて書いていく。
死の不安がクライエントよって面接場面に持ち込まれる場合、次の三つの死の不安を区別しなければならない。一つ目は神経症的な死の不安、二つ目は偽装された死の不安、三つ目は本来的な死の不安である。
神経症的な死の不安と本来的な死の不安
神経症的な死の不安は、いわゆる不安障害に含まれる病的な不安であり、本来的な死の不安から区別されなければならない。この二つの死の不安の区別は、フロイトの神経症的不安と現実不安の区別に基づいている。フロイトは『精神分析入門』で何らかの対象と結びついた不安を次の三つに区別している。一つ目は、蛇への恐怖といった、正常者にとっても不安を惹起するものへの不安、二つ目は、乗り物恐怖といった、事故などの危険は確かにあるが、普通はほとんど無視されていいものへの不安、三つ目は、猫への恐怖といった、普通は全く危険でも何でもないものへの不安である。このフロイトの三つの区別から死の不安を見たとき、死の不安は二つ目の種類の不安に属するものであり、死は正常者にとっても恐るべきものであるが、差し迫った脅威としては捉えられていないところのものである。しかし、死は差し迫った脅威ではなくとも、いずれは”確実に”来るものであって、その点で正常者にとっても不安の対象になり得るということが、死という問題の特異性を構成している。実のところ、差し迫った脅威ではないという形で死の不安を否定することは、ただのごまかしでしかないのである。しかし、乗り物へ乗るということが特別不安障害の症状となるように、死の不安が不安障害の症状として表れる場合は当然あり得る。そこで、本来的な死の不安と神経症的な死の不安を区別することが重要になってくる。一般にこの二つの死の不安は、その不安の切迫性によって区別され得ると考えられる。本来的な死の不安を感じる人でも、健康で安定された生活が保障されている限り、それはあくまで当分は先の問題として捉えられる。そのため、死の不安を感じてはいても、それに対するある程度の余裕は確保されている。しかし、神経症的な死の不安を感じている人にとっては、死はいつ訪れてもおかしくないものとして、差し迫ったものとして感じられている。つまり、そうした人達にとっては、死それ自体への不安はもちろんあるものの、死を具体的に到来させる原因となる出来事の方が、不安の主な内容をなしている。クライエントの死に対する関係にこのような偏りが見られる場合は、その不安が病的なものであるという見方に対しての一定の妥当性が示されている。もしこのような不安が不安障害に類するものであるならば、不安障害一般にエビデンスのある心理療法、すなわちエクスポージャー療法や抗不安薬なども有効になってくるだろう。しかし、一般的には神経症的な死の不安と本来的な死の不安の区別においては、前者を後者と取り違える誤りより、後者を前者と取り違える誤りの方がずっと多い。それは現状の精神医学や認知行動療法的アプローチには、死の不安を死の不安として扱うための理論的基板が全く備わっていないからであり、死の不安は普通、単なる症状として扱われる。しかし、本来的な死の不安に対して、抗不安薬やエクスポージャーによって対処するというのは、クライエントには馬鹿げたものに思われるだろうし、実際馬鹿げた方法であるだろう。
偽装された死の不安と本来的な死の不安
偽装された不安と本来的な死の不安の区別は、精神分析によって明らかにされた人間の象徴的論理、キルケゴールやハイデガーによる恐怖と不安の区別に基づいている。周知のようにフロイトは、神経症の症状はただ無意味に生じるものではなく、無意識に抑圧されたある欲望を意味するものであることを明らかにした。例えばハンス少年の馬に対する恐怖は、抑圧された父への敵意の表現であった。それと同じように、死に対する不安は別の何かに対しての恐怖を意味するものである場合がある。精神分析においては純粋な神経症的不安というものは存在しないのであって、神経症的不安の底には常に、幼少期における父との葛藤といった実際に経験された現実不安が存在している。ここにおいて神経症的不安は現実不安に還元されるのであり、純粋な神経症的不安に代わって偽装された現実不安が現れることになる。実際、死への不安というものは、クライエントの話をよく聞いていくと、家族と永遠に離れることに対する不安であったり、自らの夢が達成されないままに終ることに対する不安であったりする。こういう場合には、死は人生の様々な他の不幸と同種のものとして、一定の象徴的論理のもとに一つの障害として、つまり恐怖の対象として現れている。そのため、死そのものというよりは、死によって失われるものの方が実のところ本当の問題であり、その問題を扱う方が臨床的には的を得ていることになる。逆に言えば、何らかの現実不安に還元されない漠然とした不安、死によって失われるものに明確な形を与える象徴的な論理を持っていないこと、死を一つの欠如的対象として規定する体系的な欲望を持っていないこと、それが本来的な死の不安、実存的な不安であるということもできる。また、死の不安が別の何かの不安の偽装になっている場合があるのと同様に、別の何かの不安が実は死の不安を意味している場合もあるということを指摘しておきたい。このような心的プロセスはヤロムやベッカーによって記述されており、例えばヤロムは、自らの死の不安から息子に過剰な期待をかけていた母親のケースを報告している。一般に不安が何を意味しているかはその都度分析されなければならないし、また、死への不安が常に他の現実不安に還元できるものであるとは限らない。精神分析的アプローチは認知行動療法的アプローチよりは不安の見方において繊細な理論を持っているが、本来的な死への不安を幼少期の葛藤などの他の現実不安に還元する誤りは避けられなければならない。
死の不安がクライエントよって面接場面に持ち込まれる場合、次の三つの死の不安を区別しなければならない。一つ目は神経症的な死の不安、二つ目は偽装された死の不安、三つ目は本来的な死の不安である。
神経症的な死の不安と本来的な死の不安
神経症的な死の不安は、いわゆる不安障害に含まれる病的な不安であり、本来的な死の不安から区別されなければならない。この二つの死の不安の区別は、フロイトの神経症的不安と現実不安の区別に基づいている。フロイトは『精神分析入門』で何らかの対象と結びついた不安を次の三つに区別している。一つ目は、蛇への恐怖といった、正常者にとっても不安を惹起するものへの不安、二つ目は、乗り物恐怖といった、事故などの危険は確かにあるが、普通はほとんど無視されていいものへの不安、三つ目は、猫への恐怖といった、普通は全く危険でも何でもないものへの不安である。このフロイトの三つの区別から死の不安を見たとき、死の不安は二つ目の種類の不安に属するものであり、死は正常者にとっても恐るべきものであるが、差し迫った脅威としては捉えられていないところのものである。しかし、死は差し迫った脅威ではなくとも、いずれは”確実に”来るものであって、その点で正常者にとっても不安の対象になり得るということが、死という問題の特異性を構成している。実のところ、差し迫った脅威ではないという形で死の不安を否定することは、ただのごまかしでしかないのである。しかし、乗り物へ乗るということが特別不安障害の症状となるように、死の不安が不安障害の症状として表れる場合は当然あり得る。そこで、本来的な死の不安と神経症的な死の不安を区別することが重要になってくる。一般にこの二つの死の不安は、その不安の切迫性によって区別され得ると考えられる。本来的な死の不安を感じる人でも、健康で安定された生活が保障されている限り、それはあくまで当分は先の問題として捉えられる。そのため、死の不安を感じてはいても、それに対するある程度の余裕は確保されている。しかし、神経症的な死の不安を感じている人にとっては、死はいつ訪れてもおかしくないものとして、差し迫ったものとして感じられている。つまり、そうした人達にとっては、死それ自体への不安はもちろんあるものの、死を具体的に到来させる原因となる出来事の方が、不安の主な内容をなしている。クライエントの死に対する関係にこのような偏りが見られる場合は、その不安が病的なものであるという見方に対しての一定の妥当性が示されている。もしこのような不安が不安障害に類するものであるならば、不安障害一般にエビデンスのある心理療法、すなわちエクスポージャー療法や抗不安薬なども有効になってくるだろう。しかし、一般的には神経症的な死の不安と本来的な死の不安の区別においては、前者を後者と取り違える誤りより、後者を前者と取り違える誤りの方がずっと多い。それは現状の精神医学や認知行動療法的アプローチには、死の不安を死の不安として扱うための理論的基板が全く備わっていないからであり、死の不安は普通、単なる症状として扱われる。しかし、本来的な死の不安に対して、抗不安薬やエクスポージャーによって対処するというのは、クライエントには馬鹿げたものに思われるだろうし、実際馬鹿げた方法であるだろう。
偽装された死の不安と本来的な死の不安
偽装された不安と本来的な死の不安の区別は、精神分析によって明らかにされた人間の象徴的論理、キルケゴールやハイデガーによる恐怖と不安の区別に基づいている。周知のようにフロイトは、神経症の症状はただ無意味に生じるものではなく、無意識に抑圧されたある欲望を意味するものであることを明らかにした。例えばハンス少年の馬に対する恐怖は、抑圧された父への敵意の表現であった。それと同じように、死に対する不安は別の何かに対しての恐怖を意味するものである場合がある。精神分析においては純粋な神経症的不安というものは存在しないのであって、神経症的不安の底には常に、幼少期における父との葛藤といった実際に経験された現実不安が存在している。ここにおいて神経症的不安は現実不安に還元されるのであり、純粋な神経症的不安に代わって偽装された現実不安が現れることになる。実際、死への不安というものは、クライエントの話をよく聞いていくと、家族と永遠に離れることに対する不安であったり、自らの夢が達成されないままに終ることに対する不安であったりする。こういう場合には、死は人生の様々な他の不幸と同種のものとして、一定の象徴的論理のもとに一つの障害として、つまり恐怖の対象として現れている。そのため、死そのものというよりは、死によって失われるものの方が実のところ本当の問題であり、その問題を扱う方が臨床的には的を得ていることになる。逆に言えば、何らかの現実不安に還元されない漠然とした不安、死によって失われるものに明確な形を与える象徴的な論理を持っていないこと、死を一つの欠如的対象として規定する体系的な欲望を持っていないこと、それが本来的な死の不安、実存的な不安であるということもできる。また、死の不安が別の何かの不安の偽装になっている場合があるのと同様に、別の何かの不安が実は死の不安を意味している場合もあるということを指摘しておきたい。このような心的プロセスはヤロムやベッカーによって記述されており、例えばヤロムは、自らの死の不安から息子に過剰な期待をかけていた母親のケースを報告している。一般に不安が何を意味しているかはその都度分析されなければならないし、また、死への不安が常に他の現実不安に還元できるものであるとは限らない。精神分析的アプローチは認知行動療法的アプローチよりは不安の見方において繊細な理論を持っているが、本来的な死への不安を幼少期の葛藤などの他の現実不安に還元する誤りは避けられなければならない。
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