この記事ではアリストテレスの真理論について書く。
アリストテレスは存在の意味として、付帯的存在、真としての存在、述語携帯としての存在、可能的ー現実的存在の四つを挙げている。従って、真理は存在の意味の一つであり、『形而上学』では第6巻4章と第9巻10章で主に論じられている。
真理の対象
アリストテレスは真理の対象を、複合的対象と非複合的対象の二つに分ける。そして、この二つの対象によって、真理の意味は変わるのである。複合的対象の場合は真理に偽が対立し、非複合的対象の場合には無知が対立する。
複合的対象
複合的対象とは、実体と属性の結合として捉えられた存在である。例えば、うさぎは耳が長い、小さいといった属性を持っているので複合的対象である。
この場合は、実際の結合を判断においても正しく結合させれば、真理となる。つまり、うさぎは耳が短いとか、ばかでかいなどと考えれば、それは偽となる。
非複合的対象
非複合的対象とは、属性を考慮に入れず、純粋な実体として捉えられた存在である。もちろん、何か特定の物からあらゆる属性を剥ぎ取ってしまえば、”何ものでもないもの”になってしまう。従って、このような存在は具体的な例を挙げることができない、存在としか言い表せないものである。
この場合は、接触しているということが真となり、接触していないということが無知となる。ここに偽は存在しない。なぜなら、偽は判断に基づくからであり、判断は何かあるものを~であると規定することであるからである。しかし、ここで問題となっている非複合的対象は属性を持っていないから、~であると判断することもできない。この世の全ての誤りは、属性においてしか起こらないのである。
真理と時間
興味深いのは、こうした論述の過程でアリストテレスが常に時間との関係についても検討していることである。次に、この点に関しても見ていこう。
複合的対象と時間
複合的対象には運動するものとしないものがある。例えば人間は運動するものであり、性格が成熟していったり、身体が老いていったりする。逆に三角形は運動しないものであり、ピタゴラスの定理は何万年経とうと変わることはない。
そしてアリストテレスは、運動しないものに関しては、(少なくとも時間においては)誤ることはないと言及している。これは逆に言えば、アリストテレスが虚偽の多くは時間の過ぎ去りによって引き起こされると考えているということである。例えば、公務員であると思っていたポールが実はもう仕事を辞めていたという場合の虚偽は、ポールが公務員であるということを知ったときの直接的=根源的真理が現実において変化を被ったために起こるのである。また、アリストテレス自身は指摘していないものの、時間による虚偽の発生は、現実ではなく人間の側でも、覚え違いなどによって起こる可能性があるだろうということを付記しておきたい。
非複合的対象と時間
アリストテレスは非複合的対象も運動しないものと考えている。なぜなら、変化し得るのは属性だけであり、存在自体は生成も消滅もしないからである。こうした非複合的対象としての存在は現実態として、属性は可能態として捉えられている。従って、真と偽が問われる領域と真と無知が問われる領域は以下のようになる。
可能態:真ー偽
現実態:真ー無知
ある可能態は何かの現実態であり、ある現実態はまた他の物の可能態に過ぎないというように、可能態と現実態は単なる対概念ではなく、相互に関連を持つ概念である。従って、真理論をこのように定式化することは様々な帰結を持つと思われる。しかし、アリストテレスは『形而上学』においてはそこまで議論を展開していない。
アリストテレスは存在の意味として、付帯的存在、真としての存在、述語携帯としての存在、可能的ー現実的存在の四つを挙げている。従って、真理は存在の意味の一つであり、『形而上学』では第6巻4章と第9巻10章で主に論じられている。
真理の対象
アリストテレスは真理の対象を、複合的対象と非複合的対象の二つに分ける。そして、この二つの対象によって、真理の意味は変わるのである。複合的対象の場合は真理に偽が対立し、非複合的対象の場合には無知が対立する。
複合的対象
複合的対象とは、実体と属性の結合として捉えられた存在である。例えば、うさぎは耳が長い、小さいといった属性を持っているので複合的対象である。
この場合は、実際の結合を判断においても正しく結合させれば、真理となる。つまり、うさぎは耳が短いとか、ばかでかいなどと考えれば、それは偽となる。
非複合的対象
非複合的対象とは、属性を考慮に入れず、純粋な実体として捉えられた存在である。もちろん、何か特定の物からあらゆる属性を剥ぎ取ってしまえば、”何ものでもないもの”になってしまう。従って、このような存在は具体的な例を挙げることができない、存在としか言い表せないものである。
この場合は、接触しているということが真となり、接触していないということが無知となる。ここに偽は存在しない。なぜなら、偽は判断に基づくからであり、判断は何かあるものを~であると規定することであるからである。しかし、ここで問題となっている非複合的対象は属性を持っていないから、~であると判断することもできない。この世の全ての誤りは、属性においてしか起こらないのである。
真理と時間
興味深いのは、こうした論述の過程でアリストテレスが常に時間との関係についても検討していることである。次に、この点に関しても見ていこう。
複合的対象と時間
複合的対象には運動するものとしないものがある。例えば人間は運動するものであり、性格が成熟していったり、身体が老いていったりする。逆に三角形は運動しないものであり、ピタゴラスの定理は何万年経とうと変わることはない。
そしてアリストテレスは、運動しないものに関しては、(少なくとも時間においては)誤ることはないと言及している。これは逆に言えば、アリストテレスが虚偽の多くは時間の過ぎ去りによって引き起こされると考えているということである。例えば、公務員であると思っていたポールが実はもう仕事を辞めていたという場合の虚偽は、ポールが公務員であるということを知ったときの直接的=根源的真理が現実において変化を被ったために起こるのである。また、アリストテレス自身は指摘していないものの、時間による虚偽の発生は、現実ではなく人間の側でも、覚え違いなどによって起こる可能性があるだろうということを付記しておきたい。
非複合的対象と時間
アリストテレスは非複合的対象も運動しないものと考えている。なぜなら、変化し得るのは属性だけであり、存在自体は生成も消滅もしないからである。こうした非複合的対象としての存在は現実態として、属性は可能態として捉えられている。従って、真と偽が問われる領域と真と無知が問われる領域は以下のようになる。
可能態:真ー偽
現実態:真ー無知
ある可能態は何かの現実態であり、ある現実態はまた他の物の可能態に過ぎないというように、可能態と現実態は単なる対概念ではなく、相互に関連を持つ概念である。従って、真理論をこのように定式化することは様々な帰結を持つと思われる。しかし、アリストテレスは『形而上学』においてはそこまで議論を展開していない。
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