今回の記事では、精神分析における無意識という概念に対して、現存在分析学派がどのように応じてきたか、その歴史をまとめる。

1古典的現存在分析
(1)ビンスワンガー
 フッサールやハイデガーの哲学に基づき、現存在分析学派を形成したのはビンスワンガーである。彼は精神分析における無意識という概念について体系的な考察を残さなかったものの、我々は彼のフロイト的無意識に対する見解を、「精神療法について」(1934)、『フロイトの想い出』(1956)、『精神分裂病』(1957)などから部分的に知ることができる。彼の無意識という概念に対しての立場を最も明瞭に表しているのは、「あなたは無意識というものをどうしようとされるのでしょうか。むしろ無意識などなくてすませるとお考えになっているのでしょうか。」というフロイトの手紙に対するビンスワンガーの述懐である。
 だが、実際面にしろ、「理論面」にしろ、フロイトの「無意識の見解なしですませる」などと私が思っていなかったことは、今更ことわるまでもないことである。しかし現象学および現存在分析に転じてからの私は、以前とは異なる角度から無意識問題をとらえるようになった。(中略)さまざまの世界内存在の様式や構造を現象学的に証明、記述していくと、例の意識・無意識の対立は背景に退いてしまうのである。(ビンスワンガー,1969,p.87)
 彼はフロイトの生物学的な人間観を批判はしたものの、無意識という概念そのものは受け入れていた。この点でビンスワンガーは、無意識概念を積極的に自らの理論に取り入れたフランクルと、無意識概念は必要ないとしたボスの中間的な立ち位置にある。
 ビンスワンガーのこのような無意識論を扱った研究としてはフリー(Frie)とヴィテリ(Vitelli)のものがある。フリー(Frie,2004)は、ビンスワンガーにおいて無意識という概念はただ自覚されていないというだけの記述的概念であり、現存在分析においては被投性という現存在の開示性に該当することを示している。また、世界内存在という概念が主観客観の二元論を克服し、人を文脈の中で、常に他者との関係の内にあることを示す概念であることに注目し、現代精神分析の間主観学派やサリヴァンの理論との理論的近似生を指摘し、複数の人間における共人間的有効妥当性確認を主張したサリヴァンに対し、単独の個人における自覚の可能性を示していた点に、ビンスワンガーの無意識論の意義があると論じている。ヴィテリ(Vitelli,2018)はビンスワンガーの研究活動の時期を二つに分け、前期の無意識概念を投企として、後期の無意識概念を受動的綜合として理解している。ハイデガー哲学からフッサール哲学への回帰という理論的変遷はビンスワンガー自身によっても述懐的に述べられているところの時期区分であり、彼の無意識概念の定式化は、ビンスワンガー現存在分析の基本的理念を正確に反映したものになっている。
 フリーとヴィテリは両者とも、ビンスワンガーが投企という働きを無意識的なものとして見ていたことを明らかにしている。しかし、ここで投企は単に意識が無意識的に対象や状況と関わる働きではなく、意識とは別の主体による働きとして扱われているであるということには注意しておかなければならない。『精神療法について』で、ビンスワンガーは意識と無意識についてこう書いている。
なにかについての意識をもつという意味での意識現象全体においては、真の心理学的諸表象すべてにおけると同じく、意識をもつ主体、意識をもたれる客体、こうした意識のもちかたの様態などが考慮されると同時に、またこれら全体がわたくし自身にまで遡って関連すること、つまりこの全体とわたくし自身との関係が、考慮されなければなりません。(ビンスワンガー,1967,p.210)
あるものをわたくし自身とともに知るときに、初めてわたくしは事柄を完全に意識しているのです。またあまりはっきりと意識していないとか、下意識的とか、さいごに無意識的といった諸表現は、結局のところ、わたくし自身の許に、あるいはわたくし自身とともに在ることのさまざまの仕方を物語っています。(ビンスワンガー,1967,pp.210-211)
 ここでビンスワンガーは意識という現象を、意識の主体、意識の対象、そしてこの二つ全体に関わる自己という三つの契機から構成されるものとしてみている。そして無意識と呼ばれる現象は、意識と自己の非共同性の様態であると理解されている。そしてここで二つのことを確認しておきたい。一つ目は、意識とその対象に対して、自己が第三者的立場として存在すること。投企は意識ではなく、自己に関わる働きであるからこそ、無意識的働きなのである。二つ目は、この自己がエスとして非人間化されていないことである。これによって、検閲者としての自我を機械論的に見立てるフロイトの説が否定されている。ビンスワンガーがハイデガー、サルトルと同じように、投企という働きをフッサールが論じた措定的意識とは別の主体によってなされるものとして見ていたことは重要である。Vitelliが理解した投企としての無意識は意識と自己の関係に位置し、受動的綜合としての無意識は意識とその対象の関係に位置している。
(2)ボス
 ボスは『フロイトの<無意識>に関する現存在分析論的考察』(1961)で、フロイトの無意識概念に対する見解を表明している。この論文を整理すると大きく三つの部分に分かれており、フロイトの無意識概念の由来、無意識概念の批判、現存在分析的視点からの無意識概念が論じられている。本稿の目的にとって重要な論文なので、その内容を手短に見ていく。
 ボスは、フロイトの無意識概念の由来について、それは心的現象の意味的連関を説明するために導入された概念であることを指摘する。相互に関係を持たない外在的な因果関係によって心的現象を説明する純粋に自然科学的な説明に対して、心的現象を意味的連関とみなす観点は、最初ディルタイによって提案された見方を徹底したものであった。しかし、意識はこの意味的連関に比べると部分的なものであり、間隙を含んでいる。無意識はこの間隙を埋めるために必要とされたのであった。フロイトはこの無意識概念が直接的経験を超えたものであることを十分に意識していたが、後催眠暗示や、失策行為、夢、神経症という現象という直接的な観察によってそれは支持されると考えた。
 ボスはこのフロイトの無意識概念について四つの観点から批判をしている。一つ目は、無意識という概念が実践的にはそれほど有用なものではないこと。二つ目は、無意識を規定するところの意識という概念についての規定が不十分であること。三つ目は、意味的連関を説明するためにかえって機械論的説明に陥ってしまっていること。四つ目は、フロイトの哲学的前提が自然の機械論的見方に基づいていることである。
 最後にボスは、フロイトの無意識を支持するところの五つの現象、意識の間隙性、後催眠暗示、失策行為、神経症、夢、のそれぞれについて、現存在分析的観点からの説明を付与する。この現存在分析的なフロイト的無意識の根拠となる事象の解釈において本質的な点は二つある。一つ目は、無意識的とされる心的内容が、心の中ではなく外にあるものとして捉えられていること。これによって、心の中にあるにも関わらず意識的に把握されないという間隙性という現象は、外在化された心的内容にただ明かりが充てられていないものとして説明されている。二つ目は、後催眠暗示、失策行為、神経症、夢などが、特定の世界観や人への関わり、あるいは頽落として説明されていること。例えば、恋愛を問題としてヒステリーに罹患した少女のケースが、禁欲的な教育を施した親の価値感への頽落として説明されている。
 ブースバイ(Boothby,1993)はこうしたボスによる無意識概念の批判を検討している。彼によれば、ボスによるフロイトの無意識概念の批判は、フロイトによる人間の自然科学的見方に根拠を置いている。こうした精神分析による人間の物象化批判は一部正当であるものの、精神分析によるそもそもの目的は人間の独自性、主観の分割を説明することにあった。ボスは人間を世界内存在として常に全体的なものとみなすことによって無意識の領野を完全に不可知なものとし、さらに無意識的現象と呼ばれていたものを単に光のあたっていない場所とすることによって、それを前意識的現象とほとんど変わらないものにしてしまった。こうした点でボスの無意識概念は批判されている。さらに彼は、ボスが無意識概念を批判した一方で抑圧という概念は重要なものとして保持していたことを指摘し、抑圧概念及び無意識概念はラカンによる言語論的見方でなら妥当に解釈され、これは後期ハイデガーの言語論とも通じるところがあるとしている。
 ボスによる無意識概念の批判は、他の現存在分析家やハイデガー哲学研究者軌を一にするものであるが、後期ハイデガー哲学に忠実な観点をとっているためか、『存在と時間』で開かれた諸概念があまり利用されていないように見える。例えば、意識的でない内容は心の外部にあるのであって、心の内部に無意識的に留まっているものではないという批判は、世界が人の中にあるのではなく人が世界の中にあるという点で、世界内存在という概念に忠実な考え方となっているが、そこでは意識外の内容が有意義性の統一的連関として、非主題的に了解されているということは言及されていない。また、ブースバイが指摘したように、ボスによる抑圧の説明にも不十分な点があるように見える。彼は精神分析において抑圧として説明される現象を、頽落という概念で説明している。しかし、頽落という現象は、元々ハイデガーが本来的な存在了解を記述していく過程で、存在論という学問的枠組みで見いだされた概念である。従って、多様な背景の元に起こる抑圧という現象一般を説明するためには、存在了解へ向けての非本来性から本来性へという限定的な観点を超えた、人間学的な一般的規定が頽落という概念で名指されているものに必要となる。最後に、ボスにおいても意識と対象の関わりは第三者的な主体によって初めて成り立つとされている点を指摘しておきたい。このことは次のような一文から明瞭に見て取ることができる。
現存在分析論はかくのごとく、人間を事物並びに自分自身を明けひらく真理性の召使として、番人として理解すると同時に、従来からのすべての主観主義的な≪世界観≫のもつ≪我≫の独裁制、自立性、時速性から人間を解放するのである。現存在分析論は、存在者のすべてと存在のすべての根底から、人間に使者の品位を戻し与える。人間は、存在がそのつど人間に許容した真理性の(開かれた)守護者として、彼の生活暦の性起(Ereignis)へとさしつかわされた使者なのである。(ボス,1962,p.92)
 ここでは、明け開かれる事物、真理性の番人としての人、人に真理性を許容する存在という三つの立場が区別されており、番人としての人は主観主義的な独裁制を持つ我とは異なるものであることが強調されている。真理の内に現れる存在者の人への現前は存在の働きによって成り立つのであり、人は召使として存在の働きに対して従属的な位置にあるのである。前述の箇所で引用したビンスワンガーの文と対応させた場合、ビンスワンガーにおいては自己と呼ばれていたものが、ボスにおいては存在と呼ばれている。ここに、前期ハイデガー思想に基づくビンスワンガーと後期ハイデガーと協働したボスの差異が象徴的に現れているといえる。

2現代現存在分析
 ボス以降の現代の代表的な現存在分析家は、ボスとは異なり、無意識的なものを重視するようになってきている(Craig,et al,2019)。ここではクンツとクレイグの現存在分析における無意識概念と、ストロロウの存在論的無意識という概念を見ていく。
(1)クンツ
 クンツ(Kunz)はスイスの現存在分析家であり、解釈学的現存在分析というアプローチを理論化し、ビンスワンガー、ボスに続く第三の現存在分析として認められるようになってきている。彼女の現存在分析はハイデガーが死や無性という形で記述した存在論的領野の負の側面を強調し、それが存在的な日常の領野に侵入してくる際の神経症的葛藤(自分自身の存在に関する苦しみ,suffering for one's own being)を解釈していく点に特徴がある。
 クンツは『Daseinsanalysis』(2014)で、解釈学的現存在分析の観点から精神分析的無意識概念を扱っている。クンツによれば、ビンスワンガーやボスは精神分析における無意識という概念をほぼ引き継がなかった。それは、現象学的アプローチとして、現象に忠実であろうとすれば、記述的アプローチをとらなければならないからである。しかし、現存在分析が症状を記述するのみでなく、それを解釈しようとするのであれば、無意識という概念は現存在分析においても引き継がれなければならない。そこでクンツはサルトルの『存在と無』における自己欺瞞の議論を取り入れ、それによって精神分析的無意識概念を説明している。サルトルと異なるのは、そこで自己欺瞞が存在的な自己欺瞞と存在論的な自己欺瞞の二つがあるとされている点である。この差異は、我々は何に関して自己を騙し、我々はなぜ自己を騙すのかという観点から明確にすることができる。人が去勢といった存在的な出来事を恐れている場合には、それを回避するために自らの危険な欲動を抑圧する。人が死や孤独といった存在論的条件に不安を抱いている場合には、ただ意識をそむけるためにその条件を抑圧するのである。フロイトが無意識の特性として論じた無矛盾性や無時間性は、単に快楽原理支配だけでなく、このような存在論的条件から免れた生の観念をも説明している。
 クンツの解釈学的現存在分析はサルトルの自己欺瞞論を導入した未だ数少ない心理療法の一つであり、存在論的領野の負の側面の臨床的重要性を強調している。存在論的な不安から逃れようとする試みはビンスワンガーにおいては上昇として概念化され、症例エレン・ウェストの病状を人間学的に説明に役立っていたが、クンツはこの不安を抑圧される無意識的領野に位置づけることによって、不安を伴う前存在論的理解とそれを隠蔽しようとする存在的日常との葛藤を扱うことを可能にしたのである。
(2)クレイグ
 クレイグ(Craig)はビンスワンガー以降知られていなかボスやクンツの現存在分析を英語圏に初めて導入した、アメリカを代表する現存在分析家である。彼の理論は人間的、関係的現存在分析(Humanistic,Relational Daseinsanalysis)と呼ばれており、クライエントとセラピストの相互的関係性を重要視するところに特徴がある。
 クレイグ(Craig,2008)は、ムスタカスやボスは無意識という概念にほとんど重要性を認めていなかったことを回顧しながらも、自らは教育分析の経験などから、無意識という概念を認めるようになってきたと述べている。そこで無意識はまず、日常的ー存在的に、次に存在論的な根拠にまで遡って論じられることになる。
 無意識はまず日常的ー存在的な意味においては、単に注意が向けられていない状態と規定される。「従って、”深層”という語によって存在的に意味されるものは、私の感覚や思考から隠されているものである。その隠蔽が私の見ないことや、考えないこと、知らないことに起因するか、私が見て、考え、知ることのできるものがそれ自体自らを示していないことに起因するかは、関係がない。」(Craig,2008,p.271)
 次に、存在的な意味での意識は、存在論的な根拠から、存在の働きによって個々の存在者が現れてくることと規定される。「そこにいることは開いているということであり、開いているということは明らかにすることである。このような開示、存在者の顕示が、私達が意識と読んでいる現象によって存在論的に意味することのできるものである。」(Craig,2008,p.272)では、このような意識が否定されるところの無意識は、存在論的にはどのように規定されるのだろうか。無意識的現象を生じさせる存在論的な原因には、現存在の側から構成される状況と、存在の側から構成される状況の二つがある。前者の原因は人間的実存の存在論的構成に関わるものであり、ここでは有限性、頽落、忘却、逃避の四つが挙げられている。後者の原因は存在の存在論的構成に関わるものであり、自らを示すと同時に隠蔽もするという存在の二面性にある。存在は自らを開示することもあるが、最も根本的で普遍的な条件においては、蔵覆性として無意識的なものである。
 クレイグが指摘している現存在の側による存在の働きの否定は、総じて有限性からの逃避、頽落によるものであり、そこではクンツと同様に、無意識的領野は存在論的条件が抑圧される場所として考察されている。しかし、クレイグはそのような現存在による抑圧とは別に、存在の働き自身が無意識的なものであるとして考察している。このような現存在とは独立して自律的に働く存在の働きを重視する姿勢見方は、後期ハイデガーやボスの見方と一致するものとなっている。
(3)ストロロウ
 ストロロウ(Stolorow)は現象学的アプローチをとりいれた間主観学派の精神分析家であり、近年はハイデガー哲学との関わりも深め、現存在分析にかなり近い立場になってきている。ここでは、彼が提唱している「存在論的無意識」という概念について見ていく。
 ストロロウは『トラウマと人間的実存』(Stolorow,R.D,2007)で、存在の感覚の喪失を表すものとして、存在論的無意識という概念を提唱している。そこで存在の感覚はまず情動の統合であると規定される。この統合は身体的な情動が象徴的なものになっていくプロセスであり、そのプロセスは養育者による幼児の体験に調和しながら行われる言語化によって促進されていく。「言語性、身体的情動、そして波長のあった関係性の三者は、それを通じて存在の感覚が形成される統合プロセスを構成する側面なのである。私自身のケースで示されたように、このプロセスが頓挫し、情緒体験が表出されなくなれば、存在の感覚の縮減、さらに喪失、つまり存在論的無意識さえもがもたらされることになる。」(ストロロウ,2009,p.45)このような意味で存在論的無意識は、主体を抑圧するような関係性=コンテクストの元、象徴化を阻まれた身体的情緒体験が滞留する領域として考えられている。
 ストロロウは、このように説明される存在感覚の喪失を、ハイデガーが不安や死へ挑む存在として記述した状態と同様のものとしているが、その説明は完全に発達心理学ー精神分析的観点からのみ考えられており、ハイデガー哲学の知見は参照されていない。従って、現存在分析学派や哲学の領域で考察されてきたハイデガー哲学に伏在している無意識的契機と存在論的無意識という概念は全く無縁なものとなっている。存在感覚の喪失という同一の現象を扱っているとしても、両者の理論はあまりにも異質なものであるため、その無意識概念を部分的な調整や批判によって接合させることは不可能である。従って、次の点だけを述べておきたい。情緒体験が象徴化を阻まれるという問題が本当に起こりえるとすれば、確かに存在感覚は失われるかもしれない。しかし、それは存在感覚の喪失を引き起こす原因の一つに過ぎない。これは日常生活の倒壊や恋人の喪失といった事柄が存在感覚の喪失の一因になり得るのと同様のことである。従って、存在感覚の喪失を部分的にしか説明しない理論の概念に対して、存在論的という用語を充てるのは、些か本質に即していないように思われる。存在感覚の喪失を問題にするのであれば、それは存在論から出発して考察されなければならないだろう。

3哲学
 哲学の領域では、ハイデガーとボスが協同して行ったセミナーの記録である『ツォリコーン・ゼミナール』が1987年に出版されるまで、ビンスワンガーやボスの現存在分析学派という例外を除けば、ハイデガー哲学と精神分析の関係が問題にされることはほとんどなかった。しかし、その中でもリチャードソン(Rchardson)はハイデガー哲学と精神分析における無意識的現象の関連を扱った重要な研究を残している。
(1)リチャードソン
 リチャードソン(Richardson,1965)はハイデガー哲学と無意識概念との関連を問うに当たって、まずフッサールを含めた現象学全体における無意識概念の位置づけを問い、それからハイデガーと現象学との関わりから無意識概念を考察している。現象学においては、無意識は志向性の働きの内に位置づけられる。リチャードソンはオイゲンフィンクの見解を援用しながら、こう述べている。
与えられた意識的志向の全ての明示的な分析は、それが明示的な主題として扱われ得る前には、単に暗示的な意識の志向でなければならないということを前提している。つまり、それは生きられた経験の複雑な総体と同一な、ある種の非主題的、機能的志向性の内に覆われている。この非主題的で機能的な、生きられた志向性が無意識、つまり無意識的プロセスの志向性と呼ばれる。(Richardson,1965,p.273)
 ここでは、我々の日常の生活世界を成り立たせている志向性が、現象学的還元による分析以前には無意識のうちに働くものとされている。
 リチャードソンは次に、このように規定されたフッサール現象学とハイデガー哲学の関係を論究する。ハイデガー哲学の特徴は、存在論的差異と主観客観二元論の批判にある。その観点からすれば、フッサール現象学における志向性は主観としての人間と対象との存在者間の関係であるのに対し、ハイデガーの現存在は存在者でありながら、存在にも関わる、前主観的な存在である。フッサールの志向性概念も存在論的な関係を問題にしないという点で、存在忘却というハイデガー特有の哲学批判に含まれるのである。現存在は単なる主観的存在者ではなく、存在了解を有する特別な存在者として、「前主観的、存在論的ー意識的自己(onto-conscious self)」である。このような整理の元、「ハイデガーの思考に位置づけられる無意識的過程の場所は、この存在論的ー意識的自己の実存論的ー存在論的次元にあると考えられる。」(Richardson,1965,p.279)と述べられている。
 リチャードソンの現存在の存在論的側面に無意識を位置づける見方は後述する本稿の理論と完全に一致するものであるが、ハイデガー解釈としては疑問が残るように思われる。というのも、ハイデガーにおいて現存在は存在との関わりにおいても意識とは記述されていないからである。この点を鋭敏に解釈し、問題としたのがサルトルであった。「≪現存在≫Daseinは、もともと意識次元を欠いていたのであるから、この次元を決して回復することができないであろう。」(サルトル,2007,p.232)ビンスワンガーと同じく、リチャードソンもこの点ではハイデガーよりもむしろサルトルに近い考えになっている。
(2)ハイデガー
 ハイデガー自身が精神分析や心理学に対してどのように向き合ったのかは、1987年に出版されたツォリコーン・ゼミナールの記録(Heidegger,1987)によって明らかになった。そこでも無意識という理論についての言及は多くないものの、1964年1月19日付けの講義では次のような重要な指摘がされている。「無意識といったものは「何のために」ではありえません。このような「何のために」は意識性(Bewußtheit)を前提しているからです。だから無意識的なものを理解することができないのです。」ここでハイデガーは無意識概念を原因ー結果という因果関係に基づく自然科学的な概念として批判し、「何のために」という理由ー目的の動機連関を意識性に帰している。そして意識については、1969年3月18日付けのボスとの対話記録で重要な言及が見られる。そこでハイデガーは「存在の空き地の内に逗留しながら存在ということが主題的に注目されないというこのような逗留の仕方は、わたしたちが意識という言葉で理解しているものとどのように関わるのか。」という問題提起をし、次のように述べている。
目の前に存在する事柄の勝手がわかっていること、つまりその意識が「現にあること」の前提なのでしょうか、それとも「現にあること」すなわち開けの内に逗留することによってはじめて、勝手がわかっているという意味での、つまり意識という形での行動が可能になるのでしょうか。もちろん後者の方です。(ハイデガー,1991,p.310)
 ここからは、動機連関の理解としての意識が、存在の開けの内への逗留としての現存在と明確に区別されていることが分かる。さらに、この現存在がその開けの内にある存在に主題的に注目していないという有様は、次のように説明されている。
表象〔再現前(repräsentieren)〕するというのは、現前的にする〔ありありとさせる(gegen wärtig machen)〕ということです。この「再(re-)」とは、わたしへと戻ることです。レプレゼンタチオとはわたしへと戻ること、わたしに現前させる(präsentieren)ことです。しかしその場合、わたしは自分自身をことさらに表象するわけではありません。この「再(re-)」(つまり、わたしへと戻って現前させること)が、つまりわたしへの関わりがことさらに主題になる可能性は、この点にあります。わたしはそのとき、表象する者として規定されるのです。そうすると一切の意識は自己意識となります。自己意識のない意識は存在しませんが、自己は必ずしもことさら主題になるとは限らないということになります。これが表象の、あるいはフッサール的内見での何かについての意識のもっとも一般的な構造です。(ハイデガー,1991,p.311)
 このように意識は常に対象意識であると同時に自己意識でもあるが、その自己は必ずしも主題的に意識されているわけではないということは、既にビンスワンガー(1934)が無意識的現象について述べていたことと完全に合致するものであり、リチャードソン(1965)が存在者への関わりとしてのフッサールの志向性を存在への関わりとしての存在論的ー意識的自己から区別したこととも合致する。ハイデガーにおいては、無意識ー意識ー現存在ー存在という四つの審級が区別されている。彼自身は、フロイト的無意識を力動的な因果法則が支配する場として拒否したものの、意識に動機連関を開示する現存在と存在の間には主題的に注目されないという反ー意識的な特徴を見ていた。ビンスワンガーとリチャードソンはこの現存在と存在との間の存在論的な関わりにフロイト的無意識を創造的に統合したのだといえるだろう。
(3)『ツォリコーン・ゼミナール』出版以後
 ダルマイヤー(Dallmayr,1995)はハイデガー哲学への精神分析的無意識概念の適合性をめぐって、リチャードソンを代表とする肯定派とコックルマン(Kockelmans)を代表とする反対派の知見を整理し、ラカン派精神分析やハイデガー哲学の共通点やメルロポンティによる現象学と精神分析の関係に関する言及を援用しながら、リチャードソンの精神分析とハイデガー哲学を接合する試みを推し進めている。彼は特に後期ハイデガーの自然(フュシス)という概念に注目し、社会的な抑制からの開放を目指す心理療法と社会的な規範への適応を目指す心理療法の対立の外部にハイデガー哲学の持つ道を位置づけている。「全体的に言って、ハイデガーのツォリコーン・ゼミナールにおける議論と後期の著作は、リビドー的衝動と抽象的な合理的規範主義との両方から現存在を外在化する試み、従って、(フュシスとしての)自然の表明と純粋な詩的自己開明への道を明らかにする試みとみることができる。」(Dallmayr,1995,p563)このように個々人が独自に有する存在の働きを、個人一般に本質的な自然科学的な因果論や合理主義への順応と対比することは、実存的心理療法の目標を端的に表しているものといえる。
 アスケイ・ファークハー(Askay&Farquhar,2013)はリチャードソンの議論をツォリコーン・ゼミナールによるハイデガーの議論と整合性を持つものとみなし、身体という観点からその考察を深めている。彼らはハイデガーが身体の持つ重要な意義を見逃していることを指摘し、その結果欲望や情熱の自然な源泉が見誤られているとしてフュシスとしての自然概念を批判している。他方でフロイトの無意識概念に関しては、欲動を物理的意味での原因ではなく、意味を構成する超越論的条件の一側面であるとする解釈を示し、世界内存在が身体的側面からどのように構成されるのかを無意識的過程として探求するものとしてハイデガー哲学を補う意義を持つと論じている。「自然はそれ自体を被投的身体を通して現し、我々の調和はそれを通して起こるため、これが身体的側面における無意識に場を明けると我々は主張する。これがハイデガーの立場をフロイトの無意識と整合的なものにするだろう。」(Askay&Farquhar,2013,p.1243)このハイデガー哲学の身体に関する批判がどこまで正当なものか、前期ハイデガーにも当てはまるものか、ここで吟味することはできないが、後期ハイデガー哲学における存在の働きの非人間化を批判するものとしては、サルトルと同一の方向を持つものとして、確かな意義を持っているように思われる。

まとめ
 これまで見てきた先行研究をまとめると次のようにいうことができる。まず、ハイデガー、ボス、コックルマンといった、フロイトの無意識概念を、特にその機械論的な因果関係の点から率直に批判している立場がある。他方では、ハイデガー哲学における非主題的に働く存在論的了解を精神分析の無意識概念と創造的に接合しようとする試みが、ビンスワンガー、リチャードソン、ダルマイヤー、アスケイ&ファークハーらによって進められてきた。このような主に哲学の分野での考察に対し、現代現存在分析としての理論家であるクンツ、クレイグもこのような前存在論的了解を無意識概念として取り入れているが、そこからさらに、無性や死といった人間の有限性からの逃避として抑圧を理解するところに、大きな特徴がある。
 現象学的実存論における無意識の働きのより詳細な解明のため、さらに次の二つの論点を提示しておきたい。第一に、フィンク、リチャードソン、ヴィテリは、存在に対する存在論的な了解だけでなく、フッサール的志向性における存在者への関係をも無意識的働きとして提示している。第二に、ビンスワンガー、クンツ、リチャードソンらは現存在が有する存在についての存在論的な了解を無意識概念として提示したのに対し、クレイグ、ダルマイヤー、アスケイ・ファークハーらは存在に対する了解だけでなく、存在自身の働き(フュシス)をも無意識概念として提示している。

文献
Binswanger,L.(1947).Ausgewählte Vorträge und Aufsätze,Band Ⅰ.Francke Verlag Bern.L.ビンスワンガー(著)荻野恒一・宮本忠雄・木村敏(訳)(1967)『現象学的人間学』みすず書房
Binswanger,L.(1956).Erinnerungen an Sigmund Freud.A.Francke AG Verlag.L・ビンスワンガー(著)竹内直治・竹内光子(訳)(1969)『フロイトへの道』岩崎学術出版社
Boothby, R. (1993). Heideggerian Psychiatry? The Freudian Unconscious in Medard Boss and Jacques Lacan. Journal of Phenomenological Psychology, 24(2), 144-160.
Boss,M.(1957).Psychoanalyse und Daseinsanalytik.Verlag Hans Huber.メダルト・ボス(著)笠原嘉・三好郁男(訳)(1962)『精神分析と現存在分析論』みすず書房
Craig, E., Daws, L., Georgas, T., & Stolorow, R. D. (2019). Challenges and New Developments. The Wiley World Handbook of Existential Therapy, 110-126.
Craig, E. (2008). The human and the hidden: Existential wonderings about depth, soul, and the unconscious. The Humanistic Psychologist, 36(3-4), 227-282.
Frie, R. (2004). Formulating Unconscious Experience: From Freud to Binswanger and Sullivan. Psychoanalysis at the limit: Epistemology, Mind, and the Question of Science, 31-48.
Heidegger,M.(1987).Zollikoner Seminare.Herausgegeben von Medard Boss,Vittorio Klostermann,Frankfurt.マルティン・ハイデガー(著)メダルト・ボス(編)木村敏・村本詔司(訳)(1991):『ハイデッガー ツォリコーン・ゼミナール』みすず書房.
Kunz,A.H(著)Leighton,S(訳)(2014).Daseinsanalysis.Free Assn Books.
Sartre,J.P.(1943) .L'Être et le néant.Gallimard.ジャン=ポール・サルトル(著)松浪信三郎(訳)(2007):『存在と無Ⅰ』筑摩書房.
Stolorow,R.D.(2007).Trauma and Human Existence.Routledge.ロバート・D・ストロロウ(著)和田秀樹(訳)(2009)『トラウマの精神分析』岩崎学術出版社
Vitelli, R. (2018). Binswanger, Daseinsanalyse and the issue of the unconscious: An historical reconstruction as a preliminary step for a rethinking of Daseinsanalytic psychotherapy. Journal of Phenomenological Psychology, 49(1), 1-42.
 Richardson, W. J. (1965). The place of the unconscious in Heidegger. Review of Existential Psychology & Psychiatry.
Dallmayr, F. (1995). Heidegger and Freud. In From Phenomenology to Thought, Errancy, and Desire (pp. 547-565). Springer, Dordrecht.
Askay, R., & Farquhar, J. (2013). Being unconscious: Heidegger and Freud. In K. W. M. Fulford, M. Davies, R. G. T. Gipps, G. Graham, J. Z. Sadler, G. Stanghellini, & T. Thornton (Eds.), The Oxford handbook of philosophy and psychiatry (pp. 1227–1244). Oxford University Press.