今回は、前回の『存在論的、郵便的』実存分析的視点からの簡潔な批評Ⅰという記事の続きを書いていく。
不可能なものの論理学的説明
まず、東の論じている不可能なものとは具体的にはどのようなものなのか、それが明瞭に見て取れる箇所を指摘するところから始めよう。『存在論的、郵便的』の2章では、不可能なものの位相がラカン、クリプキ、デリダの三つの立場の対比によって描かれている。そこで不可能なものは、クリプキの議論を通して、論理学的な射程の中で示される。
我々はこのような歴史的事実の訂正が論理的には矛盾していても、それを普通に理解することができる。古文書に登場するアリストテレスが、アレクサンダー大王の家庭教師ではなかっただけではなく、マケドニア人でもなかったし、実は哲学者ではなかったとしても、それを理解することができる。我々が知っているアリストテレスは、実はただの一般人の名に過ぎなかったのだと。
しかし、ここでは当初アリストテレスという名で意味されていた人物はもはや別人になっているのだから、それを相変わらずアリストテレスという名で指し示すのは、論理的には矛盾しているのである。もはや別人になってもアリストテレスを理解できるということは、我々はアリストテレスという名のもとに何を理解していたのだろうか?これが固有名に含まれる意味の剰余であり、特定の物事をその意味内容のみで説明することの不可能性である。
不可能なものの臨床場面における説明
より臨床に即した場面での例も示しておこう。不可能なものの特徴が比較的明瞭に現れるのは依存症の問題である。依存症にもアルコールやギャンブルなど色々あるが、ここではDVを行うパートナーに対する共依存の問題を取り上げる(依存症に対する他の心理学的説明を排除するものではなく、あくまで例として)。暴力や暴言ばかり振るい、その上特別優れた外見的魅力や社会的地位を有してるわけでもない、そんなどうしようもないパートナーとなぜ別れられないというような現象が起きるのだろうか。それは被害者の欲望が、DVを行うパートナーの個々の特徴や行動ではなく、その剰余としての存在に向けられているからである。先の説明でアリストテレスが全く別人になったとしても、アリストテレスという存在自体は維持されたように、ここでも固有名に含まれる意味の剰余が問題になっている。
否定神学的構造を有する精神分析による説明では、依存症のような異常な欲望は、無意識に隠された別の欲望の現れであると考える。例えば、DVを行うパートナーへの共依存、欲望は、誰かに依存されたいという欲望の現れであり、誰かに依存されたいという欲望は過去の家族関係で経験した何らかの満足とその欲望の現れである。このような元となる欲望とその現れとしての欲望の連鎖がシニフィアン連鎖であり、象徴界を形成している。シニフィアン連鎖は最終的に、それ自体は意味を持たない欲望に至る。それが象徴的ファルスへの欲望である。つまり、ラカン派において、依存症に見られるような異常な欲望のあり方は最終的にはファルスに帰着するのであり、そこに東が論じる不可能性の次元は位置している。象徴的ファルスの Φは想像的ファルスφが存在しないということを肯定的に示す記号であり、具体的なものとしては~でないという仕方でしか語れない否定神学的構造を有している。
東による不可能なものの説明
このような不可能性を、否定神学的でない仕方で説明するにはどうしたらいいだろうか。デリダ=東は、固有名の剰余、つまり不可能性は、実は元々存在するものなのではなく、ある条件の元に現れる錯覚に過ぎないということを指摘する。
今ある世界としての現実世界に対して、今後あり得る、またはあり得た世界としての可能世界がある。この可能世界は現実世界と比べて、様々な差異を含んでおり、程度によってはほとんど現実世界と全く別のものにさえなってしまう。それにも関わらず、我々はこの二つの世界にある同一性、少なくとも概念としての同一性を持ち込もうとする。そこに錯覚としての不可能性が生じるのである。
このような可能世界との関わりは、具体的にはある現実の訂正という契機において現れる。過去においては可能的に過ぎなかったものが現実的なものとなり、現実的だと考えていたものが可能的でしかなかったものとして与えられる。固有名の剰余という錯覚を引き起こす条件は、訂正の必要性の到来=幽霊の実体化である。社会的空間、コミュニケーションの問題とは、このような訂正の契機を規定するものとして論じられている。ここで社会性が問題になっているのは恐らく政治的含意があってのことだと考えられるが、訂正の契機としては、他者との社会的関係だけでなく、現実との関係や自己関係も含まれるだろう。
不可能性とリズム
『存在論的、郵便的』の第3章では、『葉書』の第一部「送付」を題材として、不可能性の問題がリズムの問題として論じられる。この章で頻繁に登場する手紙、声、切手、響きなどの隠喩概念は、精神分析や現象学を前提とした高度に抽象的な比喩となっているので、かなり難解な部分になっている。しかし、ここでも常に不可能なものは訂正可能性と関わっていることを堅持しておかなければならない。
ある概念がいくらでも訂正可能であるということは、様々な文脈によっていくらでも意味が変わり得るという散種という概念に対応している。この散種という概念は前期のデリダ哲学から導き出すことのできる概念である。それでは、後期デリダに特徴的なものは何であるか。それはデッド・ストック=郵便空間の導入である。この空間について東はこう書いている。
それでは、後期デリダの著作として取り上げられている『葉書』でこの空間はどのように描かれているのか。『葉書』はデリダの恋人とのやりとりを描いた疑似書簡であり、恋人とのやりとりには多くの手紙や電話が用いられる。しかし、手紙が書かれた日や届く日は錯綜し、そこに差し挟まれる電話も国際通話として時差を伴っている。東は、このような様々なメディアによって生じる情報伝達の誤差をデッド・ストック空間として再解釈し、リズムの問題として検討している。
このような議論は、手紙や電話、リズムといった比喩表現を外して考えるなら、現実の訂正という契機がどのように出現するのかを描いたものといえるだろう。ここで特徴的なのは、現実の訂正が、突然人に降りかかるものとしてではなく、時差として、一種の遅延として規定されていることにある。人は何かを考えたり欲望したりするにあたって、できるだけ現実を考慮する。しかし、現実を完璧に認識するようなことは、神でも無い限り不可能である。ここに声の分割、端的な現前性の不可能性がある。この認識の不完全性によって、人は誤り得る。しかし、この誤りを訂正するような現実はいずれ到来するものとして存在しているのであり、遅延という形で不在であるに過ぎない。ここに手紙の非現前化がある。このような遅延としての様々な訂正可能性の存在が、デッド・ストック空間、郵便空間と呼ばれているのである。前期デリダの散種概念と対比したときの、この郵便空間の特徴は、散種によって引き起こされる訂正可能性に、遅延という形での時間的実在性を与えたことにあるといえるだろう。
郵便空間という概念の評価
『存在論的、郵便的』という著作で示された、不可能性の捉え方、郵便空間という概念からは、どのような帰結が得られるだろうか。筆者なりの考えをこれからまとめていく。
この著作で描かれたデリダ哲学からは、主に次の二つの特徴を読み取ることができる。
1、散種としての、現実の端的な認識の不可能性
2、郵便空間としの、訂正可能性の相対的な取り戻し
郵便空間という概念から得られる最大の帰結は、訂正可能性を遅延として規定することによって、それを取り戻す可能性を示したことにある。例えば、本書では最大の遅延を伴う訂正可能性として、死が指摘されている。ハイデガーが示したように、多くの人は死から逃避し、まるで死など存在しないかのように、他人事のことであるかのように生きている。しかし、死=訂正可能性は人生の最後に必ず待ち受けているのであり、今現在には存在しない、遅延しているのに過ぎないのである。ここで重要なのは、人には自らの死を考慮に入れて、それを前提とした人生の選択肢を生きることもできることである。このようないずれ来る遅延した訂正可能性を先取りし、亡霊化を防ぐ道を示したことが郵便空間という概念の最大の利点といえるだろう。しかし、散種という概念が放棄されたわけではないことには注意しておかなければならない。訂正可能性の先取りは、散種の先取りではなく、あらかじめ予測のできる事態に対応した多義性の先取りでしかない。たとえ自らの死をも覚悟した一貫した生き方ができる人でも、異世界にでも転生するような奇妙な状況に陥れば、別の生き方の再選択=生き方の訂正をすることもあるだろう。遅延してやってくる訂正可能性は無限に考えられるのであり、従ってその先取りもあくまで相対的なものである。逆に言えば、郵便空間の導入による不在の訂正可能性の先取りという可能性は、相対主義と批判されることの多かったポストモダン哲学に、相対性の中での序列、優先性を与えることができる。どのような選択肢も相対的なものに過ぎなかったとしても、郵便空間における幽霊達との戯れにおいて、より優れた選択肢を選ぶ道が開かれたのである。
ロゴセラピーとの関係と臨床的帰結
前回の記事では触れなかったが、実はフランクルの理論は完全に否定神学的構造になっている。フランクルは、生きる意味は一般的に定義することは不可能であることを指摘する。このことはよくチェスの例えによって説明される。その都度の具体的な局面において優れた駒の置き方は異なるのであって、チェスに一般的な正解はない。生きる意味を統一的に説明するような意味内容=シニフィエはないのである。このことによってロゴセラピーの理論は、何らかの超越論的シニフィエによって生きる意味を一般的に規定する形而上学とは区別されるだろう。では、個々の具体的な場面における生きる意味はどこから来るのだろうか。フランクルは、生きる意味は人間自身によって作られるものではなく、審判者から良心の直感を通して与えられるという神秘的な説明を与えている。これは超越論的シニフィアンの由来を主体意外の特定の起源的場所に求めるクリプキや後期ハイデガーに近い説明となっているだろう。
このようなフランクルの理論に残存している神秘主義に対して、デリダの郵便空間という概念は、超越論的シニフィアンの由来=不可能性がどのように構成されるのかという問題を、具体的な場面における投企的試みの散種的運動を介したずれとして、現実的な問題として論じることができるようになる。また、このように不可能性を直接問題にすることができるようになったのは、前回の記事でハイデガーやラカンについて指摘した、不可能性を抑圧や頽落といった偽の状態としてしか見なせない問題点を克服することもできる。しかし、郵便空間は不可能性という現象を説明することができるということは認めるとしても、その不可能性がどのようにあるシステムを構成するのかということについては、未だに検討の余地があるように思われる。東は、クリプキの神話を伝達経路という概念から擁護し、こう書いている。「クリプキの神話は実際には、象徴界の成立以前、シニフィアンの集合が「世界」として纏めあげられる以前の話をしていると解釈されねばならない。象徴界というひとつのシステムから出発すること、まさにそこに転倒があったのだ。」(4)このように、散種的運動から生ずる伝達経路の誤配可能性という問題は、システムの成立以前の段階に位置している。しかし、前回も言及したように、生きる意味とは単なる不可能性ではなく、人生や生活全体に意味を与えるもののことを指す。従って、生きる意味が問題になる場合、生に必然的に伴う死をも含んだ、人生全体を肯定的に捉えることのできる一定のシステムが重要になってくるのであって、このような調和された人生観はカウンセリング・心理療法のあらゆる場面で目標となるものでもある。
まとめ
これまで説明してきたように、東が『存在論的、郵便的』で描いて見せたデリダの郵便空間という概念は、生きる意味に関する哲学的、心理学的探求において、非常に重要な意義を持つものだといえる。実は、この著作を読んで考えたことは他にも多くのことがあった。それには、エクリチュール理論によって刷新された転移概念と現代の臨床心理学の学派対立問題、レヴィナスの「享受」概念との関連、サルトルにおける「幽霊」概念との関連、デリダ的呼びかけ=幽霊の能動性とフランクルにおける人生からの問いかけのユダヤ思想的関連、散種的運動によって生じたずれを訂正する試みとしてのマインドフルネス認知療法とフォーカシング療法の対応性などがある。しかし、実存分析の中心テーマである生きる意味という問題に関して一通りの論述は済んだので、ひとまずこの記事は終えることにする。
(1)東浩紀(1998)『存在論的、郵便的 ジャックデリダについて』新潮社p.110
(2)同上p.124
(3)同上p.169
(4)同上p.126
不可能なものの論理学的説明
まず、東の論じている不可能なものとは具体的にはどのようなものなのか、それが明瞭に見て取れる箇所を指摘するところから始めよう。『存在論的、郵便的』の2章では、不可能なものの位相がラカン、クリプキ、デリダの三つの立場の対比によって描かれている。そこで不可能なものは、クリプキの議論を通して、論理学的な射程の中で示される。
例えばいま、アリストテレスは実はアレクサンダー大王を教えていなかったという新事実が判明したとする。記述理論にしたがえば、そのとき私たちは「『アレクサンダー大王を教えた人』はアレクサンダー大王を教えていなかったという命題をもつこととなる。しかしこの命題は単なる単なる論理的自己矛盾(AはAでない)であり、そもそも有意味ではない。(1)
我々はこのような歴史的事実の訂正が論理的には矛盾していても、それを普通に理解することができる。古文書に登場するアリストテレスが、アレクサンダー大王の家庭教師ではなかっただけではなく、マケドニア人でもなかったし、実は哲学者ではなかったとしても、それを理解することができる。我々が知っているアリストテレスは、実はただの一般人の名に過ぎなかったのだと。
しかし、ここでは当初アリストテレスという名で意味されていた人物はもはや別人になっているのだから、それを相変わらずアリストテレスという名で指し示すのは、論理的には矛盾しているのである。もはや別人になってもアリストテレスを理解できるということは、我々はアリストテレスという名のもとに何を理解していたのだろうか?これが固有名に含まれる意味の剰余であり、特定の物事をその意味内容のみで説明することの不可能性である。
不可能なものの臨床場面における説明
より臨床に即した場面での例も示しておこう。不可能なものの特徴が比較的明瞭に現れるのは依存症の問題である。依存症にもアルコールやギャンブルなど色々あるが、ここではDVを行うパートナーに対する共依存の問題を取り上げる(依存症に対する他の心理学的説明を排除するものではなく、あくまで例として)。暴力や暴言ばかり振るい、その上特別優れた外見的魅力や社会的地位を有してるわけでもない、そんなどうしようもないパートナーとなぜ別れられないというような現象が起きるのだろうか。それは被害者の欲望が、DVを行うパートナーの個々の特徴や行動ではなく、その剰余としての存在に向けられているからである。先の説明でアリストテレスが全く別人になったとしても、アリストテレスという存在自体は維持されたように、ここでも固有名に含まれる意味の剰余が問題になっている。
否定神学的構造を有する精神分析による説明では、依存症のような異常な欲望は、無意識に隠された別の欲望の現れであると考える。例えば、DVを行うパートナーへの共依存、欲望は、誰かに依存されたいという欲望の現れであり、誰かに依存されたいという欲望は過去の家族関係で経験した何らかの満足とその欲望の現れである。このような元となる欲望とその現れとしての欲望の連鎖がシニフィアン連鎖であり、象徴界を形成している。シニフィアン連鎖は最終的に、それ自体は意味を持たない欲望に至る。それが象徴的ファルスへの欲望である。つまり、ラカン派において、依存症に見られるような異常な欲望のあり方は最終的にはファルスに帰着するのであり、そこに東が論じる不可能性の次元は位置している。象徴的ファルスの Φは想像的ファルスφが存在しないということを肯定的に示す記号であり、具体的なものとしては~でないという仕方でしか語れない否定神学的構造を有している。
東による不可能なものの説明
このような不可能性を、否定神学的でない仕方で説明するにはどうしたらいいだろうか。デリダ=東は、固有名の剰余、つまり不可能性は、実は元々存在するものなのではなく、ある条件の元に現れる錯覚に過ぎないということを指摘する。
名「アリストテレス」が流通する社会的空間こそが、まずその訂正可能性を規定する。その訂正可能性から複数の可能世界が構成され、そこから逆に諸可能世界に共通する名「アリストテレス」の実体を探し求めようとしたときはじめて、ひとは固有名に「剰余」があるかのように錯覚する。(2)
今ある世界としての現実世界に対して、今後あり得る、またはあり得た世界としての可能世界がある。この可能世界は現実世界と比べて、様々な差異を含んでおり、程度によってはほとんど現実世界と全く別のものにさえなってしまう。それにも関わらず、我々はこの二つの世界にある同一性、少なくとも概念としての同一性を持ち込もうとする。そこに錯覚としての不可能性が生じるのである。
このような可能世界との関わりは、具体的にはある現実の訂正という契機において現れる。過去においては可能的に過ぎなかったものが現実的なものとなり、現実的だと考えていたものが可能的でしかなかったものとして与えられる。固有名の剰余という錯覚を引き起こす条件は、訂正の必要性の到来=幽霊の実体化である。社会的空間、コミュニケーションの問題とは、このような訂正の契機を規定するものとして論じられている。ここで社会性が問題になっているのは恐らく政治的含意があってのことだと考えられるが、訂正の契機としては、他者との社会的関係だけでなく、現実との関係や自己関係も含まれるだろう。
不可能性とリズム
『存在論的、郵便的』の第3章では、『葉書』の第一部「送付」を題材として、不可能性の問題がリズムの問題として論じられる。この章で頻繁に登場する手紙、声、切手、響きなどの隠喩概念は、精神分析や現象学を前提とした高度に抽象的な比喩となっているので、かなり難解な部分になっている。しかし、ここでも常に不可能なものは訂正可能性と関わっていることを堅持しておかなければならない。
ある概念がいくらでも訂正可能であるということは、様々な文脈によっていくらでも意味が変わり得るという散種という概念に対応している。この散種という概念は前期のデリダ哲学から導き出すことのできる概念である。それでは、後期デリダに特徴的なものは何であるか。それはデッド・ストック=郵便空間の導入である。この空間について東はこう書いている。
この想定は前期の隠喩対立からは導かれない。だがそれは、幽霊=再来するもの(revenant)について志向するためには不可欠な契機である。逸脱したものが留保される空間の導入こそが、その回帰を可能にするはずだからだ。(3)
それでは、後期デリダの著作として取り上げられている『葉書』でこの空間はどのように描かれているのか。『葉書』はデリダの恋人とのやりとりを描いた疑似書簡であり、恋人とのやりとりには多くの手紙や電話が用いられる。しかし、手紙が書かれた日や届く日は錯綜し、そこに差し挟まれる電話も国際通話として時差を伴っている。東は、このような様々なメディアによって生じる情報伝達の誤差をデッド・ストック空間として再解釈し、リズムの問題として検討している。
このような議論は、手紙や電話、リズムといった比喩表現を外して考えるなら、現実の訂正という契機がどのように出現するのかを描いたものといえるだろう。ここで特徴的なのは、現実の訂正が、突然人に降りかかるものとしてではなく、時差として、一種の遅延として規定されていることにある。人は何かを考えたり欲望したりするにあたって、できるだけ現実を考慮する。しかし、現実を完璧に認識するようなことは、神でも無い限り不可能である。ここに声の分割、端的な現前性の不可能性がある。この認識の不完全性によって、人は誤り得る。しかし、この誤りを訂正するような現実はいずれ到来するものとして存在しているのであり、遅延という形で不在であるに過ぎない。ここに手紙の非現前化がある。このような遅延としての様々な訂正可能性の存在が、デッド・ストック空間、郵便空間と呼ばれているのである。前期デリダの散種概念と対比したときの、この郵便空間の特徴は、散種によって引き起こされる訂正可能性に、遅延という形での時間的実在性を与えたことにあるといえるだろう。
郵便空間という概念の評価
『存在論的、郵便的』という著作で示された、不可能性の捉え方、郵便空間という概念からは、どのような帰結が得られるだろうか。筆者なりの考えをこれからまとめていく。
この著作で描かれたデリダ哲学からは、主に次の二つの特徴を読み取ることができる。
1、散種としての、現実の端的な認識の不可能性
2、郵便空間としの、訂正可能性の相対的な取り戻し
郵便空間という概念から得られる最大の帰結は、訂正可能性を遅延として規定することによって、それを取り戻す可能性を示したことにある。例えば、本書では最大の遅延を伴う訂正可能性として、死が指摘されている。ハイデガーが示したように、多くの人は死から逃避し、まるで死など存在しないかのように、他人事のことであるかのように生きている。しかし、死=訂正可能性は人生の最後に必ず待ち受けているのであり、今現在には存在しない、遅延しているのに過ぎないのである。ここで重要なのは、人には自らの死を考慮に入れて、それを前提とした人生の選択肢を生きることもできることである。このようないずれ来る遅延した訂正可能性を先取りし、亡霊化を防ぐ道を示したことが郵便空間という概念の最大の利点といえるだろう。しかし、散種という概念が放棄されたわけではないことには注意しておかなければならない。訂正可能性の先取りは、散種の先取りではなく、あらかじめ予測のできる事態に対応した多義性の先取りでしかない。たとえ自らの死をも覚悟した一貫した生き方ができる人でも、異世界にでも転生するような奇妙な状況に陥れば、別の生き方の再選択=生き方の訂正をすることもあるだろう。遅延してやってくる訂正可能性は無限に考えられるのであり、従ってその先取りもあくまで相対的なものである。逆に言えば、郵便空間の導入による不在の訂正可能性の先取りという可能性は、相対主義と批判されることの多かったポストモダン哲学に、相対性の中での序列、優先性を与えることができる。どのような選択肢も相対的なものに過ぎなかったとしても、郵便空間における幽霊達との戯れにおいて、より優れた選択肢を選ぶ道が開かれたのである。
ロゴセラピーとの関係と臨床的帰結
前回の記事では触れなかったが、実はフランクルの理論は完全に否定神学的構造になっている。フランクルは、生きる意味は一般的に定義することは不可能であることを指摘する。このことはよくチェスの例えによって説明される。その都度の具体的な局面において優れた駒の置き方は異なるのであって、チェスに一般的な正解はない。生きる意味を統一的に説明するような意味内容=シニフィエはないのである。このことによってロゴセラピーの理論は、何らかの超越論的シニフィエによって生きる意味を一般的に規定する形而上学とは区別されるだろう。では、個々の具体的な場面における生きる意味はどこから来るのだろうか。フランクルは、生きる意味は人間自身によって作られるものではなく、審判者から良心の直感を通して与えられるという神秘的な説明を与えている。これは超越論的シニフィアンの由来を主体意外の特定の起源的場所に求めるクリプキや後期ハイデガーに近い説明となっているだろう。
このようなフランクルの理論に残存している神秘主義に対して、デリダの郵便空間という概念は、超越論的シニフィアンの由来=不可能性がどのように構成されるのかという問題を、具体的な場面における投企的試みの散種的運動を介したずれとして、現実的な問題として論じることができるようになる。また、このように不可能性を直接問題にすることができるようになったのは、前回の記事でハイデガーやラカンについて指摘した、不可能性を抑圧や頽落といった偽の状態としてしか見なせない問題点を克服することもできる。しかし、郵便空間は不可能性という現象を説明することができるということは認めるとしても、その不可能性がどのようにあるシステムを構成するのかということについては、未だに検討の余地があるように思われる。東は、クリプキの神話を伝達経路という概念から擁護し、こう書いている。「クリプキの神話は実際には、象徴界の成立以前、シニフィアンの集合が「世界」として纏めあげられる以前の話をしていると解釈されねばならない。象徴界というひとつのシステムから出発すること、まさにそこに転倒があったのだ。」(4)このように、散種的運動から生ずる伝達経路の誤配可能性という問題は、システムの成立以前の段階に位置している。しかし、前回も言及したように、生きる意味とは単なる不可能性ではなく、人生や生活全体に意味を与えるもののことを指す。従って、生きる意味が問題になる場合、生に必然的に伴う死をも含んだ、人生全体を肯定的に捉えることのできる一定のシステムが重要になってくるのであって、このような調和された人生観はカウンセリング・心理療法のあらゆる場面で目標となるものでもある。
まとめ
これまで説明してきたように、東が『存在論的、郵便的』で描いて見せたデリダの郵便空間という概念は、生きる意味に関する哲学的、心理学的探求において、非常に重要な意義を持つものだといえる。実は、この著作を読んで考えたことは他にも多くのことがあった。それには、エクリチュール理論によって刷新された転移概念と現代の臨床心理学の学派対立問題、レヴィナスの「享受」概念との関連、サルトルにおける「幽霊」概念との関連、デリダ的呼びかけ=幽霊の能動性とフランクルにおける人生からの問いかけのユダヤ思想的関連、散種的運動によって生じたずれを訂正する試みとしてのマインドフルネス認知療法とフォーカシング療法の対応性などがある。しかし、実存分析の中心テーマである生きる意味という問題に関して一通りの論述は済んだので、ひとまずこの記事は終えることにする。
(1)東浩紀(1998)『存在論的、郵便的 ジャックデリダについて』新潮社p.110
(2)同上p.124
(3)同上p.169
(4)同上p.126
コメント