今回はエピクロス哲学の観点から考えられる、生きる意味について書きます。
エピクロスと生きる意味
エピクロスとは古代ギリシャの哲学者で、快楽をありのままに肯定し、楽しむことを主張した人です。これは一見常識的な見方のようにも思えますが、当時の哲学や宗教では、禁欲を重視する思想が多数派であったため、珍しいものでもありました。エピクロスの快楽を重視する視点から生きる意味を考えると、こういうことが言えるでしょう。
生きる意味とは、快楽をもたらすようなプラスの出来事が、マイナスの出来事を上回ること、プラスの出来事とマイナスの出来事の総計が、0から上回ることである。
人生とは一つの余暇であって、人生全体が暇つぶしに過ぎない。たまたま与えられたこの自由な時間を楽しく消費すること、それが成功すれば人生には意味がある。それがエピクロス哲学の生きる意味に関しての帰結だといえるでしょう。
エピクロス派の言葉に、「ちょうど宴から決して不満でなく立ち去るように、生命からも、その時が来れば、それと同じように私は立ち去る。」というものがあります(1)。我々は親しい人と飲み会に行った場合、うまい酒を飲み、好きなことを談話し、満足してそこから帰ります。人生もそれと同じように、飲み会に出かけるような感覚で楽しみ、そこから去ればいいのです。
このような姿勢で人生を楽しむ場合、どうすればいいでしょうか。以下に、快楽と0地点と不快の三つについて、エピクロス哲学からの解説をします。
エピクロスの快楽概念
快楽というと、性的快楽のような身体的で強烈なものを想像する人も多いかも知れません。そして、そのような快楽をむさぼるだけの権力や財産がないことによって、悲観的になるかもしれません。
しかし、エピクロスの意味する快楽とはそのようなものではなく、精神的なものや、ささいなものも含みます。それは例えば、空気がおいしいとか、晴れた日の空が綺麗だとか、そんなものも含むものです。普段は当たり前に感じる健康も、インフルエンザでひどい頭痛に悩まされているときや、飲み過ぎてひどい気持ち悪さと吐き気に見舞われている状態に比べたら、どんなに快適なことでしょうか。そうした状態に比べると、普通に呼吸ができること、泥の入ってない水を飲めること、あらゆることにプラスの出来事を見いだすことができます。エピクロスは、「パンと水だけあれば、自分は幸福に満ちていられる」という言葉を残しています(2)。
エピクロス哲学の0地点
エピクロス哲学の特長は、自分が幸福であると判断する基準となる0地点をできるだけ低く設定することにあります。誰か親しい人と離別したとき、あまりにも大切な人を失ったことで、大きな絶望に見舞われるかもしれません。しかし、そもそもその人と出会わなかった場合を考えるとどうなるでしょう。その場合は何も残りませんが、今はその人との思い出が残っています。このように、エピクロスは何事も、何もなかった場合、自分が生まれさえしなかった場合を0地点とし、そこから幸福を考えるのです。過去の自分や他人と比較するのではなく、このような0地点を基準に考えることによって、ささいな幸福も大切にできるようになるのです。
エピクロスの不快概念
エピクロス哲学では、プラスの出来事を増やすよりも、マイナスの出来事を減らすことに重点が置かれます。そのため、快楽の追求なども、それが失敗に終われば失望を引き起こすため、積極的に薦められるわけではありません。人が感じる不幸の大半は心理的なものです。そのため、エピクロスは自分にとってマイナスな感情に惑わされない、平静な境地を最重要視しました。これは現代心理学においては、様々な否定的認知を扱う認知行動療法や、マイナスな感情からの脱中心化を目指すマインドフルネス認知療法にあたります。このような心理療法などを通して、マイナスな出来事から距離をとり、プラスな出来事を楽しむことができるようになれば、人生をより有意義なものにできるでしょう。
エピクロス哲学への批判
エピクロスは非常に単純明快で、宗教や神といった超越的な観念を必要としない明朗な哲学です。しかし、快と不快のバランスについては批判もあります。例えばフランクルは「楽しみのために生きることは、そもそも割に合わない」と言い、「楽しみがないからといって、生きる意味はなくなりはしない」と主張しています(3)。エピクロスが主張したように、快と不快のバランスは、心理的な態度によってある程度はコントロールはできますが、恐らくそれにも限度はあるでしょう。また、楽しい出来事が不快な出来事を上回っているからといって、必ずしもそれに満足できるとも限りません。このようなさらに深い問題を解決しようとするのが実存的心理療法になります。
(1)ルクレーティウス(1961)『物の本質について』(樋口勝彦訳)岩波書店
(2)エピクロス(1959)『エピクロス』(出隆、 岩崎 允胤訳)岩波書店
(3)フランクル(1993)『それでも人生にイエスという』(山田邦男 、松田美佳訳)春秋社
*分かりやすく多少言い換えて引用しています。
エピクロスと生きる意味
エピクロスとは古代ギリシャの哲学者で、快楽をありのままに肯定し、楽しむことを主張した人です。これは一見常識的な見方のようにも思えますが、当時の哲学や宗教では、禁欲を重視する思想が多数派であったため、珍しいものでもありました。エピクロスの快楽を重視する視点から生きる意味を考えると、こういうことが言えるでしょう。
生きる意味とは、快楽をもたらすようなプラスの出来事が、マイナスの出来事を上回ること、プラスの出来事とマイナスの出来事の総計が、0から上回ることである。
人生とは一つの余暇であって、人生全体が暇つぶしに過ぎない。たまたま与えられたこの自由な時間を楽しく消費すること、それが成功すれば人生には意味がある。それがエピクロス哲学の生きる意味に関しての帰結だといえるでしょう。
エピクロス派の言葉に、「ちょうど宴から決して不満でなく立ち去るように、生命からも、その時が来れば、それと同じように私は立ち去る。」というものがあります(1)。我々は親しい人と飲み会に行った場合、うまい酒を飲み、好きなことを談話し、満足してそこから帰ります。人生もそれと同じように、飲み会に出かけるような感覚で楽しみ、そこから去ればいいのです。
このような姿勢で人生を楽しむ場合、どうすればいいでしょうか。以下に、快楽と0地点と不快の三つについて、エピクロス哲学からの解説をします。
エピクロスの快楽概念
快楽というと、性的快楽のような身体的で強烈なものを想像する人も多いかも知れません。そして、そのような快楽をむさぼるだけの権力や財産がないことによって、悲観的になるかもしれません。
しかし、エピクロスの意味する快楽とはそのようなものではなく、精神的なものや、ささいなものも含みます。それは例えば、空気がおいしいとか、晴れた日の空が綺麗だとか、そんなものも含むものです。普段は当たり前に感じる健康も、インフルエンザでひどい頭痛に悩まされているときや、飲み過ぎてひどい気持ち悪さと吐き気に見舞われている状態に比べたら、どんなに快適なことでしょうか。そうした状態に比べると、普通に呼吸ができること、泥の入ってない水を飲めること、あらゆることにプラスの出来事を見いだすことができます。エピクロスは、「パンと水だけあれば、自分は幸福に満ちていられる」という言葉を残しています(2)。
エピクロス哲学の0地点
エピクロス哲学の特長は、自分が幸福であると判断する基準となる0地点をできるだけ低く設定することにあります。誰か親しい人と離別したとき、あまりにも大切な人を失ったことで、大きな絶望に見舞われるかもしれません。しかし、そもそもその人と出会わなかった場合を考えるとどうなるでしょう。その場合は何も残りませんが、今はその人との思い出が残っています。このように、エピクロスは何事も、何もなかった場合、自分が生まれさえしなかった場合を0地点とし、そこから幸福を考えるのです。過去の自分や他人と比較するのではなく、このような0地点を基準に考えることによって、ささいな幸福も大切にできるようになるのです。
エピクロスの不快概念
エピクロス哲学では、プラスの出来事を増やすよりも、マイナスの出来事を減らすことに重点が置かれます。そのため、快楽の追求なども、それが失敗に終われば失望を引き起こすため、積極的に薦められるわけではありません。人が感じる不幸の大半は心理的なものです。そのため、エピクロスは自分にとってマイナスな感情に惑わされない、平静な境地を最重要視しました。これは現代心理学においては、様々な否定的認知を扱う認知行動療法や、マイナスな感情からの脱中心化を目指すマインドフルネス認知療法にあたります。このような心理療法などを通して、マイナスな出来事から距離をとり、プラスな出来事を楽しむことができるようになれば、人生をより有意義なものにできるでしょう。
エピクロス哲学への批判
エピクロスは非常に単純明快で、宗教や神といった超越的な観念を必要としない明朗な哲学です。しかし、快と不快のバランスについては批判もあります。例えばフランクルは「楽しみのために生きることは、そもそも割に合わない」と言い、「楽しみがないからといって、生きる意味はなくなりはしない」と主張しています(3)。エピクロスが主張したように、快と不快のバランスは、心理的な態度によってある程度はコントロールはできますが、恐らくそれにも限度はあるでしょう。また、楽しい出来事が不快な出来事を上回っているからといって、必ずしもそれに満足できるとも限りません。このようなさらに深い問題を解決しようとするのが実存的心理療法になります。
(1)ルクレーティウス(1961)『物の本質について』(樋口勝彦訳)岩波書店
(2)エピクロス(1959)『エピクロス』(出隆、 岩崎 允胤訳)岩波書店
(3)フランクル(1993)『それでも人生にイエスという』(山田邦男 、松田美佳訳)春秋社
*分かりやすく多少言い換えて引用しています。
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