最近東浩紀の『存在論的、郵便的』を読んだのだが、この著作を読んで非常に大きな感銘を受けた。筆者はサルトル以後の現代思想にはまだそこまで明るくないので、勘違いな部分もあるかもしれないが、ここに簡単な批評を残しておこうと思う。
概念的整理
この著作の意義を最も簡潔にまとめると、デリダの脱構築概念に関する従来の見方を更新し、郵便的脱構築という側面を示すことによって、後期デリダの新たな読解可能性を示した、ということができるだろう。しかし、事はもっと複雑であり、デリダのみに収まらない。そこで、最初に議論の大枠となる概念を整理する。
形而上学ー否定神学ー郵便的=誤配システム
この三つの概念が『存在論的、郵便的』で前提とされる哲学史の区分となる。言明できない、論理的に表現できない不可能なもの。この不可能性を認めないのが形而上学であり、不可能性を単一のものとして否定的に捉えるのが否定神学であり、不可能性を複数のものとして、個々の幽霊の再来による効果として捉えるのが郵便的ネットワークである。
ゲーデル的脱構築ーデリダ的脱構築
デリダの脱構築は2章で二つに分けられる。形而上学を克服するものが存在論的脱構築であり、否定神学を克服するものがデリダ的脱構築である。
ハイデガー=ラカンVSデリダ=フロイト
形而上学を克服したものの、否定神学的構図にとどまっている哲学の代表として、2章でラカンが取り上げられ、3章以降ではハイデガーも同様の哲学者として論じられるようになる。他方で、後期デリダはこのラカン=ハイデガーと対抗するものとして論じられ、フロイトはそうした後期デリダの試みの参照点として4章で取り上げられる。ラカン派精神分析とデリダ的精神分析、この二つの精神分析が異なった特徴を持つのは、参照されるフロイトのテクストの特徴が異なるからである。
ファルス=手紙=存在可能性=声VS幽霊=切手=響き
ゲーデル的脱構築の結果産出される、否定神学的構造における不可能なものが手紙や声といった隠喩概念である。手紙=ファルスは精神分析に属する概念であり、声=存在可能性は現象学に属する概念である。デリダ的脱構築によって、否定神学とは異なった仕方で不可能性を問題にするものが幽霊を代表とする概念群となる。切手は手紙に対応し、響きは声に対応する。
論理的脱構築ー存在論的脱構築ー郵便的脱構築
4章ではゲーデル的脱構築は二つに分けられる。それが論理的脱構築と存在論的脱構築である。論理的脱構築はゲーデル的脱構築と同義であるが、存在論的脱構築はデリダ的脱構築ではない。存在論的脱構築は論理的脱構築の結果産出された超越論的シニフィアンの由来を存在という固有名詞において探求し、クリプキ的神学とジジェク的否定神学のあいだの前近代的ともいえる立場へと至る。
声ー呼び声ー存在の声ーデリダ的呼びかけ
東は現象学における声概念をめぐる歴史を整理している。それが声、呼び声、存在の声、デリダ的呼びかけの四つの声である。声はフッサール哲学に該当する概念であり、呼び声は前期ハイデガーに該当する概念であり、存在の声は後期ハイデガーに該当する概念である。声概念に関しては、ハイデガー哲学は多少歪曲されているように思われる。ハイデガーの呼び声概念の論述で参照されているのは常に『存在と時間』2編2章の良心論である。しかし、Daを構成するのは現存在によって投企された存在可能性であり、良心の呼び声は、その投企の一様式である本来性の先駆的覚悟性を構成する一要素に過ぎない。
『存在論的、郵便的』と実存分析
筆者はデリダ自身の著作も、デリダに関して書かれた著作も既にいくつか読んでいるが、なぜ『存在論的、郵便的』にだけ大きな感銘を受けたのかを今振り返って考えてみると、それはこの本がハイデガー=ラカンとの対立軸においてデリダを読むものであったところが大きいだろう。ハイデガーと関係することは実存的問題と関係することを意味し、精神分析と関係することは心理臨床家にとっては遍く重大な意味を持っている。
従って、『存在論的、郵便的』は生きる意味を失うほどの絶望にある人をいかに援助するか、という観点から読むことができる。この記事は解説ではなく、簡単な批評を目的としているので、詳細な解説は省くが、最終的には生きる意味という具体的で切実な問題に、実際のカウンセリングや心理療法という実践的な問題につながるよう、論述を進めていきたい。
否定神学的構造
まず、否定神学という概念の問題点から整理していこう。この著作は従来デリダの脱構築と目されてきたゲーデル的脱構築と区別されるデリダ的ー郵便的脱構築を明らかにすることに最大の重点が置かれている。なぜ郵便的脱構築が必要なのか。それはゲーデル的脱構築の結果が否定神学と呼ばれる状況に陥るからである。
否定神学とは、「肯定的=実証的な言語表現では決して捉えられない、裏返せば否定的な表現を介してのみ捉えることができる何らかの存在がある、少なくともその存在を想定することが世界認識に不可欠だとする、神秘的思考一般を広く指している」(1)。
否定的な表現を介してのみ捉えることができる何らかの存在とは、本書では不可能なものと呼ばれている。否定的にしか言及できないということは、それに関して具体的に論じることができないということを意味し、神秘的な怪しげな態度において思考はとどまってしまう。しかし、このような不可能なものがもし、非常に重要なものであったら・・・?
否定神学的構造と実存主義
否定神学に関して最初に指摘しておきたいのは、実存主義的なテーゼとの関連である。周知のように、サルトルは実存主義のテーゼとして「実存は本質に先立つ」という言葉を残した。これは分かりやすく言うと、人は何ものでもない、人の生き方は決められていない、ということを意味している。しかし、特定の述語=本質で規定することのできないこの実存という概念は、まさに否定神学における不可能なものと似ていないだろうか。
実存は本質に先立つというテーゼは、人は自由であるというテーゼとセットである。人は自由であり、その生き方は自らの主体的な決断によって作り上げられていく。従って、実存主義的思考は実存の問題を主体的決断という行為に丸投げする思考に陥りやすい。しかし、人が本当に自由であるなら、そもそも何らかの悩みにとらわれるようなことがあるのだろうか。実存という概念は否定神学的構造を超えて、その根拠に向かってさらに問われる必要がある。
否定神学的構造とポスト構造主義
一般的な哲学史では、実存主義以降の哲学は構造主義とポスト構造主義と呼ばれる。ポスト構造主義という名称は、構造主義の後、という意味であって、その哲学の内容的な意味合いを持っていない。もはや特定の述語によって規定することのできなくなった哲学がポスト構造主義なのであって、ここにも否定神学との重要な対応を見ることができるだろう。
『存在論的、郵便的』では、一般的に実存主義と構造主義に分類されるハイデガーとラカンが否定神学的構図としてまとめられており、ポスト構造主義はその後の時代の哲学にあたるので、否定神学的構造とポスト構造主義は時期的にも対応している。筆者は以前の記事において、実存主義と構造主義を対立したものとして見る哲学史観を批判したことがあるが、『存在論的、郵便的』は実存的問題の系譜として構造主義をまとめ、その否定神学的構造の限界を乗り越えることによって、ポスト構造主義に一つの重要な意味を与える試みとして読むことができる。
否定神学的構造の政治的含意
本書で不可能と呼ばれているものは、論理的に説明することの不可能性、端的に認識することの不可能性を意味する。では、そもそもなぜこのような不可能性を問題にする必要があるのだろうか。
デリダに限らず、20世紀後半の哲学はそのほとんどが、第二次世界大戦という悲劇を繰り返さないこと、戦争やそれによって引き起こされる殺人といった悲劇を避けることを主な目的の一つとしている。そこで問題となるのがイデオロギー=形而上学の問題である。戦争は宗教や国家主義、共産主義など、様々な思想対立が大きな動因となって発生する。従って、それを避けるためには、自分の拠って立つ立場が絶対的に正しいというわけではないこと、その思想に基づいて殺人を犯すことも絶対的に正当化され得ないことを哲学は証明する必要がある。この証明が形而上学に不可能性を導入するということであり、『存在論的、郵便的』ではゲーデル的脱構築と呼ばれている。不可能性が他者性などというよく分からない言葉で言い換えられることがあるのは、このような戦争や殺人といった文脈があるからである。
では、このようなゲーデル的脱構築の結果生じる否定神学的構造では何が問題となるのだろうか。そこで問題となるのは、不可能性の導入そのものではなく、その導入の仕方である。否定神学的構造では、ある思想や生き方の意味は、互いに意味を与え合う様々な命題や行為からなるシステムと捉えられ、不可能性はそのシステムの例外、システム全体に意味を与えるがそれ自体の意味は決定不可能なシステム全体の残余として導入されている。このような不可能性の在り方からは、政治的に考えて二つの欠点がある。
まず、不可能性が思考や認識のシステムの例外とみなされることにより、それについて有意味な思考を展開することができなくなる。その結果、不可能性とそれによって規定されるシステム全体が無意味さやアナーキズムに陥り、単に気に入らないものを論破するために脱構築的原理が乱用されるといった事態を招く。本書ではこの側面が注目され、後期デリダのパフォーマティブなテクスト実践は脱構築的実践を行う側の転移の問題を扱う一戦略として理解されている。
次に、ゲーデル的脱構築では、不可能性がシステムの例外として確保されるとしても、形式的なシステムの全体性は残ったままになる。その場合、システム、世界の全体性は単一の不可能性に全て依存するようになるため、不可能性に与えられた内容いかんによっては、システム内の出来事としての殺人も無条件に肯定されることになってしまう。このような問題には、ハイデガーの世界内存在による同一化に抵抗する世界外的な顔を主張したレヴィナス哲学との関連を指摘することができる。単一の例外としての不可能性は、精神分析においては母のような大他者への応答として差し出されるものである。従って、ゲーデル的脱構築から郵便的脱構築への移行は、ラカンにおける単一の大他者からレヴィナスにおける顔を持った他者達への重点の移行として理解できるかもしれない。
否定神学的構造と臨床的含意、生きる意味との関係
上述のように、デリダのテクストは基本的に20世紀後半の政治的な文脈で書かれていると想定するのが妥当だろう。しかし、臨床心理学という分野の発展のため、また実際の臨床実践に役立てるためには、否定神学的構造をまた異なった観点から捉え直さなければならない。
まず、生きる意味への問いは論理的に回答することのできない問いであること、それは不可能性に関わる問いであることは容易に確認できるだろう。何のために生きるのか、そこには明確な回答がないからこそ、様々な生き方をする人達がいるのである。
それでは、この生きる意味の不可能性はどのように捉えればいいのだろうか。否定神学的構造では全体性の例外として不可能性は捉えられ、全体の意味は不可能性から由来する。ハイデガーにおいては、現存在によって投企された存在可能性が諸々の道具連関からなる世界性を規定し、ラカンにおいては、ファルスがセクシュアリティを規範化し、父の名が原象徴界に法を与える。生きる意味とは、単に不可能なものなのではなく、人生や生活全体に意味を与えるもののことを指すのだから、これらの哲学はまさに生きる意味という概念の構造を表現できているといえる。
それでは生きる意味を問う観点から見た否定神学的構造の問題点はどこにあるだろうか。それは、システムの全体性に対して例外=超越論的シニフィアンが存在するという構造が最初から前提されていることにある。この事態を分かりやすく表現すると、「私達の生きる意味は何であるか、そこには客観的な回答はない。しかし、生きる意味があることは確かだ。」ということになる。
否定神学的構造における不可能性は超越論的シニフィアンであり、そこには内容=シニフィエは規定されていない。しかし、その超越論的な立ち位置、例外としての位相が存在することはあらかじめ規定されている。このことは、否定神学的構造が生きる意味の構造は説明できるが、その構造の生成や喪失は説明できないことを意味している。人生や生活に意味を与えるようなもの、それは相当な価値を持つものであり、当人が心からそれに関心を傾け、情熱をそそげるものであるはずである。それだけに、そのような価値は常に前提できるようなものではなく、中々見つけることができなかったり、見失ってしまったりもするものではないだろうか。
否定神学的に解釈された(そうでない仕方で解釈することは十分可能であるが)ハイデガーとラカンは、生きる意味を喪失した人を偽りの状態としてしか見ることができない。それは先駆的覚悟性から逃避した頽落した在り方であり、ファルスへの欲望を間違った仕方で抑圧した状態に過ぎない。死や良心の責任と向き合えば、あるいは、自分の欲望の由来に気づくことができれば、本来の状態に戻ることができ、何であれ生きる意味となるようなものを見いだすことができるという、ある種の楽観論がそこには潜んでいるように見える。盗まれた手紙は、なぜ重要なのかという理由は個々人によって異なる。しかし、それがとにかく重要なものであるということは全員に、無条件に前提されてしまっているのである。
前編まとめ
大分長くなってしまったので、この批評は前編と後編の二つに分けることにする。後編では、デリダが郵便的脱構築においてどのように不可能性を捉え直したかを見ていき、その実存分析における意義を考察する。
(1)東浩紀(1998)『存在論的、郵便的 ジャックデリダについて』新潮社p.94-95
概念的整理
この著作の意義を最も簡潔にまとめると、デリダの脱構築概念に関する従来の見方を更新し、郵便的脱構築という側面を示すことによって、後期デリダの新たな読解可能性を示した、ということができるだろう。しかし、事はもっと複雑であり、デリダのみに収まらない。そこで、最初に議論の大枠となる概念を整理する。
形而上学ー否定神学ー郵便的=誤配システム
この三つの概念が『存在論的、郵便的』で前提とされる哲学史の区分となる。言明できない、論理的に表現できない不可能なもの。この不可能性を認めないのが形而上学であり、不可能性を単一のものとして否定的に捉えるのが否定神学であり、不可能性を複数のものとして、個々の幽霊の再来による効果として捉えるのが郵便的ネットワークである。
ゲーデル的脱構築ーデリダ的脱構築
デリダの脱構築は2章で二つに分けられる。形而上学を克服するものが存在論的脱構築であり、否定神学を克服するものがデリダ的脱構築である。
ハイデガー=ラカンVSデリダ=フロイト
形而上学を克服したものの、否定神学的構図にとどまっている哲学の代表として、2章でラカンが取り上げられ、3章以降ではハイデガーも同様の哲学者として論じられるようになる。他方で、後期デリダはこのラカン=ハイデガーと対抗するものとして論じられ、フロイトはそうした後期デリダの試みの参照点として4章で取り上げられる。ラカン派精神分析とデリダ的精神分析、この二つの精神分析が異なった特徴を持つのは、参照されるフロイトのテクストの特徴が異なるからである。
ファルス=手紙=存在可能性=声VS幽霊=切手=響き
ゲーデル的脱構築の結果産出される、否定神学的構造における不可能なものが手紙や声といった隠喩概念である。手紙=ファルスは精神分析に属する概念であり、声=存在可能性は現象学に属する概念である。デリダ的脱構築によって、否定神学とは異なった仕方で不可能性を問題にするものが幽霊を代表とする概念群となる。切手は手紙に対応し、響きは声に対応する。
論理的脱構築ー存在論的脱構築ー郵便的脱構築
4章ではゲーデル的脱構築は二つに分けられる。それが論理的脱構築と存在論的脱構築である。論理的脱構築はゲーデル的脱構築と同義であるが、存在論的脱構築はデリダ的脱構築ではない。存在論的脱構築は論理的脱構築の結果産出された超越論的シニフィアンの由来を存在という固有名詞において探求し、クリプキ的神学とジジェク的否定神学のあいだの前近代的ともいえる立場へと至る。
声ー呼び声ー存在の声ーデリダ的呼びかけ
東は現象学における声概念をめぐる歴史を整理している。それが声、呼び声、存在の声、デリダ的呼びかけの四つの声である。声はフッサール哲学に該当する概念であり、呼び声は前期ハイデガーに該当する概念であり、存在の声は後期ハイデガーに該当する概念である。声概念に関しては、ハイデガー哲学は多少歪曲されているように思われる。ハイデガーの呼び声概念の論述で参照されているのは常に『存在と時間』2編2章の良心論である。しかし、Daを構成するのは現存在によって投企された存在可能性であり、良心の呼び声は、その投企の一様式である本来性の先駆的覚悟性を構成する一要素に過ぎない。
『存在論的、郵便的』と実存分析
筆者はデリダ自身の著作も、デリダに関して書かれた著作も既にいくつか読んでいるが、なぜ『存在論的、郵便的』にだけ大きな感銘を受けたのかを今振り返って考えてみると、それはこの本がハイデガー=ラカンとの対立軸においてデリダを読むものであったところが大きいだろう。ハイデガーと関係することは実存的問題と関係することを意味し、精神分析と関係することは心理臨床家にとっては遍く重大な意味を持っている。
従って、『存在論的、郵便的』は生きる意味を失うほどの絶望にある人をいかに援助するか、という観点から読むことができる。この記事は解説ではなく、簡単な批評を目的としているので、詳細な解説は省くが、最終的には生きる意味という具体的で切実な問題に、実際のカウンセリングや心理療法という実践的な問題につながるよう、論述を進めていきたい。
否定神学的構造
まず、否定神学という概念の問題点から整理していこう。この著作は従来デリダの脱構築と目されてきたゲーデル的脱構築と区別されるデリダ的ー郵便的脱構築を明らかにすることに最大の重点が置かれている。なぜ郵便的脱構築が必要なのか。それはゲーデル的脱構築の結果が否定神学と呼ばれる状況に陥るからである。
否定神学とは、「肯定的=実証的な言語表現では決して捉えられない、裏返せば否定的な表現を介してのみ捉えることができる何らかの存在がある、少なくともその存在を想定することが世界認識に不可欠だとする、神秘的思考一般を広く指している」(1)。
否定的な表現を介してのみ捉えることができる何らかの存在とは、本書では不可能なものと呼ばれている。否定的にしか言及できないということは、それに関して具体的に論じることができないということを意味し、神秘的な怪しげな態度において思考はとどまってしまう。しかし、このような不可能なものがもし、非常に重要なものであったら・・・?
否定神学的構造と実存主義
否定神学に関して最初に指摘しておきたいのは、実存主義的なテーゼとの関連である。周知のように、サルトルは実存主義のテーゼとして「実存は本質に先立つ」という言葉を残した。これは分かりやすく言うと、人は何ものでもない、人の生き方は決められていない、ということを意味している。しかし、特定の述語=本質で規定することのできないこの実存という概念は、まさに否定神学における不可能なものと似ていないだろうか。
実存は本質に先立つというテーゼは、人は自由であるというテーゼとセットである。人は自由であり、その生き方は自らの主体的な決断によって作り上げられていく。従って、実存主義的思考は実存の問題を主体的決断という行為に丸投げする思考に陥りやすい。しかし、人が本当に自由であるなら、そもそも何らかの悩みにとらわれるようなことがあるのだろうか。実存という概念は否定神学的構造を超えて、その根拠に向かってさらに問われる必要がある。
否定神学的構造とポスト構造主義
一般的な哲学史では、実存主義以降の哲学は構造主義とポスト構造主義と呼ばれる。ポスト構造主義という名称は、構造主義の後、という意味であって、その哲学の内容的な意味合いを持っていない。もはや特定の述語によって規定することのできなくなった哲学がポスト構造主義なのであって、ここにも否定神学との重要な対応を見ることができるだろう。
『存在論的、郵便的』では、一般的に実存主義と構造主義に分類されるハイデガーとラカンが否定神学的構図としてまとめられており、ポスト構造主義はその後の時代の哲学にあたるので、否定神学的構造とポスト構造主義は時期的にも対応している。筆者は以前の記事において、実存主義と構造主義を対立したものとして見る哲学史観を批判したことがあるが、『存在論的、郵便的』は実存的問題の系譜として構造主義をまとめ、その否定神学的構造の限界を乗り越えることによって、ポスト構造主義に一つの重要な意味を与える試みとして読むことができる。
否定神学的構造の政治的含意
本書で不可能と呼ばれているものは、論理的に説明することの不可能性、端的に認識することの不可能性を意味する。では、そもそもなぜこのような不可能性を問題にする必要があるのだろうか。
デリダに限らず、20世紀後半の哲学はそのほとんどが、第二次世界大戦という悲劇を繰り返さないこと、戦争やそれによって引き起こされる殺人といった悲劇を避けることを主な目的の一つとしている。そこで問題となるのがイデオロギー=形而上学の問題である。戦争は宗教や国家主義、共産主義など、様々な思想対立が大きな動因となって発生する。従って、それを避けるためには、自分の拠って立つ立場が絶対的に正しいというわけではないこと、その思想に基づいて殺人を犯すことも絶対的に正当化され得ないことを哲学は証明する必要がある。この証明が形而上学に不可能性を導入するということであり、『存在論的、郵便的』ではゲーデル的脱構築と呼ばれている。不可能性が他者性などというよく分からない言葉で言い換えられることがあるのは、このような戦争や殺人といった文脈があるからである。
では、このようなゲーデル的脱構築の結果生じる否定神学的構造では何が問題となるのだろうか。そこで問題となるのは、不可能性の導入そのものではなく、その導入の仕方である。否定神学的構造では、ある思想や生き方の意味は、互いに意味を与え合う様々な命題や行為からなるシステムと捉えられ、不可能性はそのシステムの例外、システム全体に意味を与えるがそれ自体の意味は決定不可能なシステム全体の残余として導入されている。このような不可能性の在り方からは、政治的に考えて二つの欠点がある。
まず、不可能性が思考や認識のシステムの例外とみなされることにより、それについて有意味な思考を展開することができなくなる。その結果、不可能性とそれによって規定されるシステム全体が無意味さやアナーキズムに陥り、単に気に入らないものを論破するために脱構築的原理が乱用されるといった事態を招く。本書ではこの側面が注目され、後期デリダのパフォーマティブなテクスト実践は脱構築的実践を行う側の転移の問題を扱う一戦略として理解されている。
次に、ゲーデル的脱構築では、不可能性がシステムの例外として確保されるとしても、形式的なシステムの全体性は残ったままになる。その場合、システム、世界の全体性は単一の不可能性に全て依存するようになるため、不可能性に与えられた内容いかんによっては、システム内の出来事としての殺人も無条件に肯定されることになってしまう。このような問題には、ハイデガーの世界内存在による同一化に抵抗する世界外的な顔を主張したレヴィナス哲学との関連を指摘することができる。単一の例外としての不可能性は、精神分析においては母のような大他者への応答として差し出されるものである。従って、ゲーデル的脱構築から郵便的脱構築への移行は、ラカンにおける単一の大他者からレヴィナスにおける顔を持った他者達への重点の移行として理解できるかもしれない。
否定神学的構造と臨床的含意、生きる意味との関係
上述のように、デリダのテクストは基本的に20世紀後半の政治的な文脈で書かれていると想定するのが妥当だろう。しかし、臨床心理学という分野の発展のため、また実際の臨床実践に役立てるためには、否定神学的構造をまた異なった観点から捉え直さなければならない。
まず、生きる意味への問いは論理的に回答することのできない問いであること、それは不可能性に関わる問いであることは容易に確認できるだろう。何のために生きるのか、そこには明確な回答がないからこそ、様々な生き方をする人達がいるのである。
それでは、この生きる意味の不可能性はどのように捉えればいいのだろうか。否定神学的構造では全体性の例外として不可能性は捉えられ、全体の意味は不可能性から由来する。ハイデガーにおいては、現存在によって投企された存在可能性が諸々の道具連関からなる世界性を規定し、ラカンにおいては、ファルスがセクシュアリティを規範化し、父の名が原象徴界に法を与える。生きる意味とは、単に不可能なものなのではなく、人生や生活全体に意味を与えるもののことを指すのだから、これらの哲学はまさに生きる意味という概念の構造を表現できているといえる。
それでは生きる意味を問う観点から見た否定神学的構造の問題点はどこにあるだろうか。それは、システムの全体性に対して例外=超越論的シニフィアンが存在するという構造が最初から前提されていることにある。この事態を分かりやすく表現すると、「私達の生きる意味は何であるか、そこには客観的な回答はない。しかし、生きる意味があることは確かだ。」ということになる。
否定神学的構造における不可能性は超越論的シニフィアンであり、そこには内容=シニフィエは規定されていない。しかし、その超越論的な立ち位置、例外としての位相が存在することはあらかじめ規定されている。このことは、否定神学的構造が生きる意味の構造は説明できるが、その構造の生成や喪失は説明できないことを意味している。人生や生活に意味を与えるようなもの、それは相当な価値を持つものであり、当人が心からそれに関心を傾け、情熱をそそげるものであるはずである。それだけに、そのような価値は常に前提できるようなものではなく、中々見つけることができなかったり、見失ってしまったりもするものではないだろうか。
否定神学的に解釈された(そうでない仕方で解釈することは十分可能であるが)ハイデガーとラカンは、生きる意味を喪失した人を偽りの状態としてしか見ることができない。それは先駆的覚悟性から逃避した頽落した在り方であり、ファルスへの欲望を間違った仕方で抑圧した状態に過ぎない。死や良心の責任と向き合えば、あるいは、自分の欲望の由来に気づくことができれば、本来の状態に戻ることができ、何であれ生きる意味となるようなものを見いだすことができるという、ある種の楽観論がそこには潜んでいるように見える。盗まれた手紙は、なぜ重要なのかという理由は個々人によって異なる。しかし、それがとにかく重要なものであるということは全員に、無条件に前提されてしまっているのである。
前編まとめ
大分長くなってしまったので、この批評は前編と後編の二つに分けることにする。後編では、デリダが郵便的脱構築においてどのように不可能性を捉え直したかを見ていき、その実存分析における意義を考察する。
(1)東浩紀(1998)『存在論的、郵便的 ジャックデリダについて』新潮社p.94-95
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