今回は死ぬという問題に関して不安を感じる人が、死と向き合うときに手がかりとなるような、哲学史上最も重要な思考を提出した二人の哲学者について解説します。その二人の哲学者とは、エピクロスとキルケゴールです。
エピクロスとは、紀元前3世紀ごろのギリシャの哲学者です。後述のキルケゴールに至るまでの近代以前の哲学では、死の不安に対するに、魂の持続、不死性の証明がなされることが基本的なアプローチでした。エピクロスはその中で唯一例外的な人物で、死の存在、心の消滅を認めながらも、死の機能、人と死の関係性に新しい見方を示すことによって、死の不安に対処しようとした人です。彼の死についての哲学は次の一文として残っています。
「死はわれわれにとって何ものでもない、なぜなら、分解したものは感覚をもたない、しかるに、感覚をもたないものはわれわれにとって何ものでもないからである。」(1)
ここで言われているのは、人は死ぬと単なる原子の集まりとなるのであって、そのような原子は死と関わりを持つことはできないということです。このことは、人が実際に死ぬときには、人は人でなくなるから、人は死を経験することはないし、それ故心配する必要もないということを表しています。
この考え方からすると、交通事故を心配するのは合理的ですが、死ぬこと心配するのは合理的ではありません。なぜなら、交通事故は人が外を出歩き、車が走っていれば実際に経験する可能性がありますが、死に関しては、例え死ぬことになっても、そのときには人は人でなくなり、意識もなくなるため、死を経験することはできないからです。一つの現在において意識と死は同時に存在できないのです。(2)
キルケゴールは19世紀前半のデンマークに生きた哲学者で、エピクロスとはまた全く違う方向性で重要な死についての考え方を提起した人です。彼は死についてこう述べています。
「キリスト教的な意味では、死はそれ自身、生への移り行きなのである。その限りにおいて、キリスト教的に見ると、いかなる地上的な、肉体的な病も、死にいたるものではない。なぜかというに、確かに死は病の最後ではあるが、しかし死は終局的なものではないからである。」(3)
ここで彼が言っているのは、死は必ずしも誰もが恐れなければならない出来事ではないということです。なぜなら、キリスト教のような宗教を信仰している人にとっては死は何でもなく、むしろそれは救済でもあり得るからです。これは一見心の不死性を証明しようとするそれまでの哲学・宗教のアプローチと同じように見えますが、彼が独特な立場にあるのは、このような不死性を客観的で証明されたものではなく、あくまで個人的な信念として示したことにあります。彼においてはいつか死ぬということ自体が問題なのではなく、それに対して自己が信仰を持ていないことが問題なのであり、ここにおいて死の問題は、自己のあり方という問題に再定式化されているのです。もちろん、科学的な見方の発展した現代において宗教を信じるのは非常に困難なことで、筆者もそのような形で死と向き合うことはすすめません。
ここにおけるキルケゴールの哲学における本当の本質は、誰もがいつかは死ぬということは事実であっても、その意味合いは人によって違う、ということです。例えば、不死性を信じていなくても、自分にとって何よりも大切なもののために、死を自ら進んで受け入れるような人はいます。デカルトは対象の重要さによって愛を区別し、次のように述べています。「たんなる愛着においては、愛するものよりもつねに自分を選び、逆に献身においては、自分自身よりも愛するものを選ぶあまり、その保持のためには死をも恐れないことになる。これには、君主あるいは都市を守るために、さらには時として献身的に愛する個人のために、確実に死ぬとわかりながら身を挺した人たちの、多くの例に見られた。」(4)
死ぬということは逆から見ると、生きるということの喪失です。従って、ただ単に生きるということが最も重要な事である限り、それは恐るべき物にならざるをえません。しかしソクラテスは「一番大切なことは単に生きることそのことではなくて、善く生きることである」(5)と言いました。従って、死と向き合う一つの在り方は、ただ単に生きるということが問題でなくなるような、それよりももっと大切なものを見つけるということにあるといえるでしょう。
しかし、この善く生きるとはどういうことでしょうか。もちろん、社会のためとか、愛のためとか、そうしたもののために行きましょう、というような胡散臭い説教じみたことを言っているわけではありません。この善さとは、社会にとっての善さでもなく、他人にとっての善さでもなく、何よりもまず自分にとっての善さであるべきです。このように自分にとっての真理を問うということが実存的に問う、ということなのであって、そのような作業を手助けするのが実存分析なのです。(6)
「私にとって真理であるような真理を発見し、私がそれのために生き、そして死にたいと思うようなイデーを発見することが必要なのだ。」(7)
(1)エピクロス(1959)『エピクロスー説教と手紙』岩波文庫
(2)このことはしかし、未来においては死が存在する、ということを否定するものではありません。人をその場その場の現在のみに生きるのではない時間的な存在とみなすハイデガーは、『存在と時間』において過去や未来を含む人生の全体性を論じるという目的で一つの章のテーマを死に充てています。ここではエピクロスの名こそ直接明示されていもものの、エピクロス哲学の批判が主な意図の一つになっています。
(3)キルケゴール(1996)『死にいたる病』ちくま学芸文庫
(4)デカルト(2008)『情念論』岩波文庫
(5)プラトン(1927)『ソクラテスの弁明・クリトン』岩波文庫
(6)ここにおいて死の問題は生きる意味という問題に接続されます。しかし、死の問題が生きる意味の問題に還元されるわけではありません。この辺りの事情は実存的心理療法の学派によっても意見が分かれるところですが、筆者自身は生きる意味を問うということは死の意味を問うということでもあり、研究においても一人一人のカウンセリングや心理療法においても、死はその都度重要視されなければならないテーマだと考えています。
(7)イデーというのは哲学用語で、分かりやすくいえば理想といった意味。キルケゴール(1966)『世界の名著40 キルケゴール』中央公論社
エピクロスとは、紀元前3世紀ごろのギリシャの哲学者です。後述のキルケゴールに至るまでの近代以前の哲学では、死の不安に対するに、魂の持続、不死性の証明がなされることが基本的なアプローチでした。エピクロスはその中で唯一例外的な人物で、死の存在、心の消滅を認めながらも、死の機能、人と死の関係性に新しい見方を示すことによって、死の不安に対処しようとした人です。彼の死についての哲学は次の一文として残っています。
「死はわれわれにとって何ものでもない、なぜなら、分解したものは感覚をもたない、しかるに、感覚をもたないものはわれわれにとって何ものでもないからである。」(1)
ここで言われているのは、人は死ぬと単なる原子の集まりとなるのであって、そのような原子は死と関わりを持つことはできないということです。このことは、人が実際に死ぬときには、人は人でなくなるから、人は死を経験することはないし、それ故心配する必要もないということを表しています。
この考え方からすると、交通事故を心配するのは合理的ですが、死ぬこと心配するのは合理的ではありません。なぜなら、交通事故は人が外を出歩き、車が走っていれば実際に経験する可能性がありますが、死に関しては、例え死ぬことになっても、そのときには人は人でなくなり、意識もなくなるため、死を経験することはできないからです。一つの現在において意識と死は同時に存在できないのです。(2)
キルケゴールは19世紀前半のデンマークに生きた哲学者で、エピクロスとはまた全く違う方向性で重要な死についての考え方を提起した人です。彼は死についてこう述べています。
「キリスト教的な意味では、死はそれ自身、生への移り行きなのである。その限りにおいて、キリスト教的に見ると、いかなる地上的な、肉体的な病も、死にいたるものではない。なぜかというに、確かに死は病の最後ではあるが、しかし死は終局的なものではないからである。」(3)
ここで彼が言っているのは、死は必ずしも誰もが恐れなければならない出来事ではないということです。なぜなら、キリスト教のような宗教を信仰している人にとっては死は何でもなく、むしろそれは救済でもあり得るからです。これは一見心の不死性を証明しようとするそれまでの哲学・宗教のアプローチと同じように見えますが、彼が独特な立場にあるのは、このような不死性を客観的で証明されたものではなく、あくまで個人的な信念として示したことにあります。彼においてはいつか死ぬということ自体が問題なのではなく、それに対して自己が信仰を持ていないことが問題なのであり、ここにおいて死の問題は、自己のあり方という問題に再定式化されているのです。もちろん、科学的な見方の発展した現代において宗教を信じるのは非常に困難なことで、筆者もそのような形で死と向き合うことはすすめません。
ここにおけるキルケゴールの哲学における本当の本質は、誰もがいつかは死ぬということは事実であっても、その意味合いは人によって違う、ということです。例えば、不死性を信じていなくても、自分にとって何よりも大切なもののために、死を自ら進んで受け入れるような人はいます。デカルトは対象の重要さによって愛を区別し、次のように述べています。「たんなる愛着においては、愛するものよりもつねに自分を選び、逆に献身においては、自分自身よりも愛するものを選ぶあまり、その保持のためには死をも恐れないことになる。これには、君主あるいは都市を守るために、さらには時として献身的に愛する個人のために、確実に死ぬとわかりながら身を挺した人たちの、多くの例に見られた。」(4)
死ぬということは逆から見ると、生きるということの喪失です。従って、ただ単に生きるということが最も重要な事である限り、それは恐るべき物にならざるをえません。しかしソクラテスは「一番大切なことは単に生きることそのことではなくて、善く生きることである」(5)と言いました。従って、死と向き合う一つの在り方は、ただ単に生きるということが問題でなくなるような、それよりももっと大切なものを見つけるということにあるといえるでしょう。
しかし、この善く生きるとはどういうことでしょうか。もちろん、社会のためとか、愛のためとか、そうしたもののために行きましょう、というような胡散臭い説教じみたことを言っているわけではありません。この善さとは、社会にとっての善さでもなく、他人にとっての善さでもなく、何よりもまず自分にとっての善さであるべきです。このように自分にとっての真理を問うということが実存的に問う、ということなのであって、そのような作業を手助けするのが実存分析なのです。(6)
「私にとって真理であるような真理を発見し、私がそれのために生き、そして死にたいと思うようなイデーを発見することが必要なのだ。」(7)
(1)エピクロス(1959)『エピクロスー説教と手紙』岩波文庫
(2)このことはしかし、未来においては死が存在する、ということを否定するものではありません。人をその場その場の現在のみに生きるのではない時間的な存在とみなすハイデガーは、『存在と時間』において過去や未来を含む人生の全体性を論じるという目的で一つの章のテーマを死に充てています。ここではエピクロスの名こそ直接明示されていもものの、エピクロス哲学の批判が主な意図の一つになっています。
(3)キルケゴール(1996)『死にいたる病』ちくま学芸文庫
(4)デカルト(2008)『情念論』岩波文庫
(5)プラトン(1927)『ソクラテスの弁明・クリトン』岩波文庫
(6)ここにおいて死の問題は生きる意味という問題に接続されます。しかし、死の問題が生きる意味の問題に還元されるわけではありません。この辺りの事情は実存的心理療法の学派によっても意見が分かれるところですが、筆者自身は生きる意味を問うということは死の意味を問うということでもあり、研究においても一人一人のカウンセリングや心理療法においても、死はその都度重要視されなければならないテーマだと考えています。
(7)イデーというのは哲学用語で、分かりやすくいえば理想といった意味。キルケゴール(1966)『世界の名著40 キルケゴール』中央公論社
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