昔どこで知ったのかは忘れたが、現代の宗教は資本主義である、という話を聞いて感銘を受けたことがある。なぜ感銘を受けたのかを今考えてみると、資本主義はあらゆる時代に普遍的な当たり前の考え方でないこと、それにも関わらず我々はそうした価値観を何の批判もなしに宗教のように受け入れていることをその話は示唆していたからである。資本主義的な価値観には、生きる意味との関係では二つの問題が提起される。一つ目は、それが大衆によって支持されている価値観であるということ。二つ目は、それが生きる意味を問う機会を奪うということである。
現代に生きる我々は幼いときからいい大学に行けるように、と言われて教育されることが多い。なぜいい大学に行かなければならないのかというと、それはいい企業に行くためであり、なぜいい企業に行かなければならないのかというと、それはより多くお金を稼ぐためである。大人になってからも年収は最大のステータスの一つとして扱われ、成功者とはすなわち大金を得た人を表している。まるで人間が生きることの意味と価値はお金を稼ぐことにあるかのようである。(1)このような価値観をノーマルなものとして受け入れてきた人にとって、うまく出世できないことや失業などの経済的貧困は、貧困それ自体だけでなく生きる意味そのものにも直結した悩みとなる。
他方で、需要があるところにはどこにでも資本が流れ込んであらゆるサービスが発展し、お金さえ払えばほとんどどんな願いでも叶うという状況が作り上げられた。こうした状況でお金は万能感のような感覚を与えるものとなる。(2)とりあえず貯蓄を蓄えておけば大抵のことは何とかなるので、こうした傾向は何のために生きるのか、という問いをわざわざ考える必要性を見失わせる。
まず、金銭が人生の価値を客観的に決定するものではないということは、実際に貧しくても幸福な人が世界には存在することを考えれば明らかであるだろう。人は状況によっては、世間とは異なった価値観を持って生きていかなければならない。世間的な価値観が唯一客観的な真実ではないということを一度理解できれば、それとは別の価値観を持つことはいくらか容易になる。世間と異なった価値観で生きていくのはつらいことかもしれないが、自分が不幸にしかならない価値観で生きていくよりは幸福を得ることができるのである。(3)また、お金の万能感も結局はまやかしであり、どんなに富裕な人にも老いと死はやってくる。資本は財産を殖やし、財産はあらゆる物品に交換可能であるが、重要なのはむしろ交換不可能なもの(つまり、かけがえのないもの)ではないか考える必要がある。
(1)女性に関してはこの限りではないかもしれない。お金を稼ぐことを結婚して家庭と子どもを持つことに書き換えても、言わんとすることは同じである。
(2)精神分析的観点からすると、資本主義的な世界観はまさに母のようなものだといえる。母は幼児が求めるものを何でも与えてくれる。だから幼児にとっては母の関心だけが重要なのであり、母に気にかけてもらえること、愛されることだけを重要視する。フロイトは金銭の糞便、ペニスとの象徴的等価性を示した。糞便は幼児が母に与えることのできる最初の贈り物であり、ペニスは母に欠如し、彼女が求めているものである。子どもの想像的ファルスになろうとする試みは父の象徴的法によって終わりを告げるが、資本主義的な世界では父の到来は必然ではなく、それは運命的な不幸や死といった形でしか到来しない。ラカンの資本主義のディスクールでは主人のディスクールにおけるSとS1が逆になり、主体と対象aが直接につながってしまっている。このような布置によって主体に剰余享楽が際限なく提供されるという事態が表現されているが、どこまでいっても剰余享楽は結局、一度失われてしまった原初的な享楽の不完全な部分的再現でしかない。
(3)大衆と孤独な個人の対立という主題はキルケゴール、ニーチェによって幾度も扱われてきた。「のがれよ、わが友よ、きみの孤独のなかへ!」「昔から、新しい諸価値の創案者たちは、市場と名声から離れたところに住んだのだ。」ニーチェ『ツァラトゥストラ上』ちくま学芸文庫(1993)
現代に生きる我々は幼いときからいい大学に行けるように、と言われて教育されることが多い。なぜいい大学に行かなければならないのかというと、それはいい企業に行くためであり、なぜいい企業に行かなければならないのかというと、それはより多くお金を稼ぐためである。大人になってからも年収は最大のステータスの一つとして扱われ、成功者とはすなわち大金を得た人を表している。まるで人間が生きることの意味と価値はお金を稼ぐことにあるかのようである。(1)このような価値観をノーマルなものとして受け入れてきた人にとって、うまく出世できないことや失業などの経済的貧困は、貧困それ自体だけでなく生きる意味そのものにも直結した悩みとなる。
他方で、需要があるところにはどこにでも資本が流れ込んであらゆるサービスが発展し、お金さえ払えばほとんどどんな願いでも叶うという状況が作り上げられた。こうした状況でお金は万能感のような感覚を与えるものとなる。(2)とりあえず貯蓄を蓄えておけば大抵のことは何とかなるので、こうした傾向は何のために生きるのか、という問いをわざわざ考える必要性を見失わせる。
まず、金銭が人生の価値を客観的に決定するものではないということは、実際に貧しくても幸福な人が世界には存在することを考えれば明らかであるだろう。人は状況によっては、世間とは異なった価値観を持って生きていかなければならない。世間的な価値観が唯一客観的な真実ではないということを一度理解できれば、それとは別の価値観を持つことはいくらか容易になる。世間と異なった価値観で生きていくのはつらいことかもしれないが、自分が不幸にしかならない価値観で生きていくよりは幸福を得ることができるのである。(3)また、お金の万能感も結局はまやかしであり、どんなに富裕な人にも老いと死はやってくる。資本は財産を殖やし、財産はあらゆる物品に交換可能であるが、重要なのはむしろ交換不可能なもの(つまり、かけがえのないもの)ではないか考える必要がある。
(1)女性に関してはこの限りではないかもしれない。お金を稼ぐことを結婚して家庭と子どもを持つことに書き換えても、言わんとすることは同じである。
(2)精神分析的観点からすると、資本主義的な世界観はまさに母のようなものだといえる。母は幼児が求めるものを何でも与えてくれる。だから幼児にとっては母の関心だけが重要なのであり、母に気にかけてもらえること、愛されることだけを重要視する。フロイトは金銭の糞便、ペニスとの象徴的等価性を示した。糞便は幼児が母に与えることのできる最初の贈り物であり、ペニスは母に欠如し、彼女が求めているものである。子どもの想像的ファルスになろうとする試みは父の象徴的法によって終わりを告げるが、資本主義的な世界では父の到来は必然ではなく、それは運命的な不幸や死といった形でしか到来しない。ラカンの資本主義のディスクールでは主人のディスクールにおける
(3)大衆と孤独な個人の対立という主題はキルケゴール、ニーチェによって幾度も扱われてきた。「のがれよ、わが友よ、きみの孤独のなかへ!」「昔から、新しい諸価値の創案者たちは、市場と名声から離れたところに住んだのだ。」ニーチェ『ツァラトゥストラ上』ちくま学芸文庫(1993)
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