先日「実存するということと生きる意味」という記事で、本質主義的な生きる意味の例として宗教やナショナリズムを挙げた。今日は現代を生きる我々にとっても身近なものである科学と生きる意味の関係について考えてみたい。
現代の高度な文明は全て科学によって支えられているため、我々はそれに絶対的な信頼を置いており、科学はほとんど真理と同義であると言ってよいほどである。なぜうさぎは大きな耳を持つのか、なぜたんぽぽはその種を風にのせてふわふわと飛ばすのか、科学としての生物学はこうした生物達が自己保存と種の繁栄を最も効率よく行った結果現在まで生き残っているのだと教える。(1)こうした生物の進化を鑑みて、人間も自己の生存と生殖を第一の原則としているという見方がある。心理学の理論にはこうした意見に近いものも多い。例えばフロイトはその理論的発展における初期の頃、人間の基本的な欲動を自己保存欲動と性欲動の二つであるとしていた。またマズローにおいても有機体としての維持に必要な食欲などの欲求と性欲は第一の生理的欲求に含まれる。しかし、自己保存的欲求と性欲が根源的な欲求であることは認めるとしても、それが生きる意味であるかというと、どうなのだろうか。実際に世の中を見渡してみると、生存を望むどころか自殺する人もいるし、結婚をしなくても、あるいは恋愛をしなくても充実して幸福な生活を送っている人はいるのである。
ただ、科学に関しては擁護しなければならない点がある。
一つ目は、科学は生きる意味の内容に直接答えを与えることはできないが、生きる意味を求める心、あるいは生きる意味を感じる心のあり方を探究することは可能であるということである。実際に、生きる意味や生きがいを尺度とした心理検査は存在し、様々な量的調査などが行われている。こうした形で科学は生きる意味の問題に対して貢献することができる。これは実存と実存論に関してなされた区別が哲学だけでなく科学としての心理学にも当てはまるということである。なぜなら哲学も科学も両方学問であり、学問の本質は客観=本質的な事柄を探求することであるのだから。
二つ目は、生きる意味が自己保存と生殖であるという説は、人間以外の生物になら正しいと言っていいということである。実際、人間以外の動物は自らの意志によって自殺をしないし、雌と一緒に檻に入れられた雄の動物が交尾をしないということはないだろう。実存するということ、生きる意味を問うということは、人間だけに特有な現象である。(2)
(1)この記事を書く際に今一度調べて見て知ったのだが、生物学は種の繁栄などの目的を必ずしも想定せず、現在も哲学的な問題提起が為されているらしい。生命、あるいは自然に目的があるかという問題については、アリストテレス、カント、シェリング、ヘーゲルと哲学的に長い歴史があるが、筆者個人としては生命には自己保存、種の繁栄という目的を想定してもいいように思える。これについては長くなるのでまた他に機会があれば記事を書きたい。
(2)人間以外の生物にとっては世界の意味は主体の感覚ー運動器官に対応して固定されている。これを環境世界緊縛性という。人間だけが有機体としての器官から独立して自由に世界を意味づけることができるのであって、それをマックス・シェーラーは世界開放性と呼んだ。ここに、ハイデガーの有名な世界内存在という概念と生物学との接点を見ることができる。この間の事情は木田元(2012)『ハイデガー拾い読み』に詳しい。
現代の高度な文明は全て科学によって支えられているため、我々はそれに絶対的な信頼を置いており、科学はほとんど真理と同義であると言ってよいほどである。なぜうさぎは大きな耳を持つのか、なぜたんぽぽはその種を風にのせてふわふわと飛ばすのか、科学としての生物学はこうした生物達が自己保存と種の繁栄を最も効率よく行った結果現在まで生き残っているのだと教える。(1)こうした生物の進化を鑑みて、人間も自己の生存と生殖を第一の原則としているという見方がある。心理学の理論にはこうした意見に近いものも多い。例えばフロイトはその理論的発展における初期の頃、人間の基本的な欲動を自己保存欲動と性欲動の二つであるとしていた。またマズローにおいても有機体としての維持に必要な食欲などの欲求と性欲は第一の生理的欲求に含まれる。しかし、自己保存的欲求と性欲が根源的な欲求であることは認めるとしても、それが生きる意味であるかというと、どうなのだろうか。実際に世の中を見渡してみると、生存を望むどころか自殺する人もいるし、結婚をしなくても、あるいは恋愛をしなくても充実して幸福な生活を送っている人はいるのである。
ただ、科学に関しては擁護しなければならない点がある。
一つ目は、科学は生きる意味の内容に直接答えを与えることはできないが、生きる意味を求める心、あるいは生きる意味を感じる心のあり方を探究することは可能であるということである。実際に、生きる意味や生きがいを尺度とした心理検査は存在し、様々な量的調査などが行われている。こうした形で科学は生きる意味の問題に対して貢献することができる。これは実存と実存論に関してなされた区別が哲学だけでなく科学としての心理学にも当てはまるということである。なぜなら哲学も科学も両方学問であり、学問の本質は客観=本質的な事柄を探求することであるのだから。
二つ目は、生きる意味が自己保存と生殖であるという説は、人間以外の生物になら正しいと言っていいということである。実際、人間以外の動物は自らの意志によって自殺をしないし、雌と一緒に檻に入れられた雄の動物が交尾をしないということはないだろう。実存するということ、生きる意味を問うということは、人間だけに特有な現象である。(2)
(1)この記事を書く際に今一度調べて見て知ったのだが、生物学は種の繁栄などの目的を必ずしも想定せず、現在も哲学的な問題提起が為されているらしい。生命、あるいは自然に目的があるかという問題については、アリストテレス、カント、シェリング、ヘーゲルと哲学的に長い歴史があるが、筆者個人としては生命には自己保存、種の繁栄という目的を想定してもいいように思える。これについては長くなるのでまた他に機会があれば記事を書きたい。
(2)人間以外の生物にとっては世界の意味は主体の感覚ー運動器官に対応して固定されている。これを環境世界緊縛性という。人間だけが有機体としての器官から独立して自由に世界を意味づけることができるのであって、それをマックス・シェーラーは世界開放性と呼んだ。ここに、ハイデガーの有名な世界内存在という概念と生物学との接点を見ることができる。この間の事情は木田元(2012)『ハイデガー拾い読み』に詳しい。
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