先日、実存するということの意味合いについて記事を書いたが、今回はそれに続いて、その実存という概念が実際に我々が生きる上での意味とどのような関係を持つのか、ということについて記事を書きたい。
まず、人は何のために生きるのか?という問いについて人類が与えてきた答えを見ていこう。
実存主義と言われた思想が登場する以前においても以後においても、最もよく行われてきた答え方は、その解答となる内容を外部から直接与えるという方法である。その内容の例を挙げると、18、19世紀までのまだ宗教が大きな影響力を持っていた時代にあっては、神のために生きること、であったり、20世紀前半の世界大戦の吹き荒れた時代にあっては、国のために生きること、であったり、20世紀後半の冷戦の続いた時代にあっては、社会主義国家の実現のために生きること、であったりした。こうした生きる意味の考え方を実存主義と対比して本質主義と呼んでおこう。(1)
以前書いた記事では実存という概念を、究極的な事柄に対する主観的な在り方であると定義してみたが、主観とは常に誰かの主観であり、個別的なものである。それを踏まえて考えると、上に挙げたような生きる意味の例は、どれも問題となっている個人が誰かを特定せず、それを顧みない形で主張されていることが分かる。つまり、本質主義においては、何のために生きるのか?という問いを抱えている人と無関係なところで生きる意味が決定され、後にそれが当人に与えられる、という構図になっているのである。もちろんそうした意味は個々人が属する集団や文化、歴史的状況から考え出されたもので、個人と全く関係がないわけではない。しかし、それが個人と直接関係があるものではないのは確かで、そうして与えられた生きる意味は、当人が受け入れることができることもあれば、受け入れることができないこともあるだろう。
こうした考え方とは逆に実存哲学においては、悩みを抱える当人の主観的な感覚や思考を前提にして、そこから生きる意味を考える。個人を尊重するということは、個々人の多様性を尊重するということでもある。従って、生きる意味は何であるか?、人は何のために生きるのか?という内容的な問いに対する実存哲学の答えは結局のところ、人それぞれである。というものになる。(2)実存分析はこうした個々人にとっての意味を、クライエントと共に見つけていこうとする営みだということができる。
(1)こうした本質主義には、現代の我々にも馴染み深い資本主義や科学も含まれる。
(2)生きる意味は人それぞれである、と言うと、結局何の答えにもなってないじゃないかと意気消沈される方もおられるかもしれない。確かに実存哲学は生きる意味そのものに関しては何の規定も行わない。しかしそれは内容に関してのことであって、人がどのように生きる意味を見いだしたり、変化させたり、維持するか、といった構造に関しては哲学は有用な理論を提供することができる。実存分析という一心理療法がわざわざ哲学を利用するのも、この点に大きく基づいている。哲学用語としては、生きる意味の内容に関する事柄は実存という用語で記述され、構造に関する事柄は実存論という形で扱われる。
まず、人は何のために生きるのか?という問いについて人類が与えてきた答えを見ていこう。
実存主義と言われた思想が登場する以前においても以後においても、最もよく行われてきた答え方は、その解答となる内容を外部から直接与えるという方法である。その内容の例を挙げると、18、19世紀までのまだ宗教が大きな影響力を持っていた時代にあっては、神のために生きること、であったり、20世紀前半の世界大戦の吹き荒れた時代にあっては、国のために生きること、であったり、20世紀後半の冷戦の続いた時代にあっては、社会主義国家の実現のために生きること、であったりした。こうした生きる意味の考え方を実存主義と対比して本質主義と呼んでおこう。(1)
以前書いた記事では実存という概念を、究極的な事柄に対する主観的な在り方であると定義してみたが、主観とは常に誰かの主観であり、個別的なものである。それを踏まえて考えると、上に挙げたような生きる意味の例は、どれも問題となっている個人が誰かを特定せず、それを顧みない形で主張されていることが分かる。つまり、本質主義においては、何のために生きるのか?という問いを抱えている人と無関係なところで生きる意味が決定され、後にそれが当人に与えられる、という構図になっているのである。もちろんそうした意味は個々人が属する集団や文化、歴史的状況から考え出されたもので、個人と全く関係がないわけではない。しかし、それが個人と直接関係があるものではないのは確かで、そうして与えられた生きる意味は、当人が受け入れることができることもあれば、受け入れることができないこともあるだろう。
こうした考え方とは逆に実存哲学においては、悩みを抱える当人の主観的な感覚や思考を前提にして、そこから生きる意味を考える。個人を尊重するということは、個々人の多様性を尊重するということでもある。従って、生きる意味は何であるか?、人は何のために生きるのか?という内容的な問いに対する実存哲学の答えは結局のところ、人それぞれである。というものになる。(2)実存分析はこうした個々人にとっての意味を、クライエントと共に見つけていこうとする営みだということができる。
(1)こうした本質主義には、現代の我々にも馴染み深い資本主義や科学も含まれる。
(2)生きる意味は人それぞれである、と言うと、結局何の答えにもなってないじゃないかと意気消沈される方もおられるかもしれない。確かに実存哲学は生きる意味そのものに関しては何の規定も行わない。しかしそれは内容に関してのことであって、人がどのように生きる意味を見いだしたり、変化させたり、維持するか、といった構造に関しては哲学は有用な理論を提供することができる。実存分析という一心理療法がわざわざ哲学を利用するのも、この点に大きく基づいている。哲学用語としては、生きる意味の内容に関する事柄は実存という用語で記述され、構造に関する事柄は実存論という形で扱われる。
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