実存という概念を厳密に規定するためには、もちろん様々な側面に分けて詳細に論じなければならないだろうが、筆者なりに分かりやすく一言で説明するとこう言うことができると思う。
実存するとは、人生の意味や死といった究極的な事柄に対しての主観的在り方を意味している。
従って、自らの主観を持っていない人など存在しないのだから、人ならば誰であれ、その在り方はどうであれ、実存はしていると言うことができる。以下で、この定義についての説明を試みてみたい。
実存するということは常に究極的な事柄に関わる
本質主義的な宗教的原理が放棄されたヘーゲル以降の哲学においても、究極的なものに関する人の関心は常に重要な役割を果たしてきた。これは最初に、キルケゴール、ニーチェが宗教を中心にその哲学を発展させたことに表れている。ハイデガー、サルトル、レヴィナスによって共有される世界内存在という概念は、~のためにというあらゆる道具的存在が収斂していく、存在可能性という生きることそのものの意味を指し示している(サルトルは対自と即自の究極的一致としての神について論じている(1))。ラカン派精神分析及びそれに影響を受けた現代哲学においては、ファルスが重要な概念となる。このファルスは主体のあらゆる不満足を解消してくる全能的な大他者の欠如を補うと同時に、その大他者からの保護を担保するために想定されるものである。また、実存主義と分類されるほとんどの哲学者が扱う死という問題も、人間の有限性を絶対的に条件付ける究極的な概念である。現象学も内在としての主観性に徹底的に依拠するという点では実存という理念と共通した点を持っているが、それは倫理的に究極的な事柄を扱うとは限らない。実際にフッサールの哲学は基本的に認識論なのであって、彼が実存主義の哲学者として扱われることは少ない。実存という理念、考え方は、人類始まって以来の根本的な関心に対する思考の歴史の中で生じた、一つの前提である。
実存するということは常に個別的な主観性、内面性に基づく
次に、実存とは主観的在り方であるという側面について。上に述べたような究極的な事柄に関しては、元来、その答えを客観的に証明するという仕方で対応されてきた。例えば、心の不死性を証明することによって、あるいは、神の存在を証明することによって。しかし、例え学者が神の存在証明したと主張したところで、その学者も結局は他人であって、その証明が自分自身の主観によっても納得できるものでなければ意味が無い。逆に、神をまともに信じる人がほとんどいなくなった現代においても、本当に宗教を信仰している人というのは事実存在するのであって、その宗教によって当人が幸福であるなら、その信仰は現代においても十分な真理性を持っているといえる。実存という考え方、前提はこうした個々人の主観的在り方を重視するものであり、キルケゴールもまさにこのような神に対する問題から出発したのであった。(2)ニーチェはこうした神の観念や、現代の我々においても客観的と思われるような善悪の基準も、元々はある特定の人々の主観的な発想であったことを明らかにした。(3)20世紀に入ると現象学によって、実存論は認識論的な基礎を得る。現象学は従来の主観を客観の一部と見る見方から客観を主観の一部と見る見方への転換を起こし、主観性としての超越論的意識を基礎に置くからである。(4)ハイデガーやサルトル、レヴィナスらは全員、現象学の徒であったが、それは実存をより厳密に規定するための方法論でもあった。精神分析においては、実存の主体的選択は、大他者との関係において表れる。前エディプス的主体が去勢の段階に至るまでは、大他者との要請の関係である欲動が完全に満足されてはいけないのであって、欲動の発展は常に大他者の欠如と向き合う主体の内面性に基づく主体的行為によって進められる。
まとめ
人生の重要事から自然の世界の成り立ちまで全てを説明していた宗教的な原理は、近代以降の合理主義によってどうやら確かでないことが明らかになり、今やこうした問題については個人個人が自ら答えを見いだしていかなければならなくなった。そこに自由があり、自由があるために責任と不安がある。死、責任、不安と、実存哲学で重要とされる概念にネガティブなイメージのものが多いのは、近代まで人を支えていた宗教的な世界観を手放さざるを得なかった事情に由来する。
最初にあらゆる人が実存していると述べたが、実存や実存主義という概念は狭義に用いられる場合、こうした死や不安といったネガティブな事柄に自分で積極的に向き合うという姿勢を意味することが多い。
(1)サルトル『存在と無Ⅲ』ちくま学芸文庫pp.343~
(2)キルケゴールは信仰を客観的な形で行おうとする試みは結局懐疑主義に陥らざるを得ないと論じた。この点については『哲学的断への結びとしての非学問的あとがき』第一部(白水社版キルケゴール著作集7所収)の議論が分かりやすい。
(3)よいーわるいとは区別され、ルサンチマン道徳と呼ばれる善悪の価値観の成立については、『道徳の系譜』第一論文(ちくま学芸文庫版ニーチェ全集11所収)において直接論じられている。
(4)ここでは分かりやすくするため、現象学は客観を主観の一部と見ると述べたが、厳密な意味での客観性は現象学では扱われない。ここでいう客観性とは普段私達が客観的と見なしているものであって、それらは間主観的に構成され、妥当性を維持し続ける真理を意味する。
実存するとは、人生の意味や死といった究極的な事柄に対しての主観的在り方を意味している。
従って、自らの主観を持っていない人など存在しないのだから、人ならば誰であれ、その在り方はどうであれ、実存はしていると言うことができる。以下で、この定義についての説明を試みてみたい。
実存するということは常に究極的な事柄に関わる
本質主義的な宗教的原理が放棄されたヘーゲル以降の哲学においても、究極的なものに関する人の関心は常に重要な役割を果たしてきた。これは最初に、キルケゴール、ニーチェが宗教を中心にその哲学を発展させたことに表れている。ハイデガー、サルトル、レヴィナスによって共有される世界内存在という概念は、~のためにというあらゆる道具的存在が収斂していく、存在可能性という生きることそのものの意味を指し示している(サルトルは対自と即自の究極的一致としての神について論じている(1))。ラカン派精神分析及びそれに影響を受けた現代哲学においては、ファルスが重要な概念となる。このファルスは主体のあらゆる不満足を解消してくる全能的な大他者の欠如を補うと同時に、その大他者からの保護を担保するために想定されるものである。また、実存主義と分類されるほとんどの哲学者が扱う死という問題も、人間の有限性を絶対的に条件付ける究極的な概念である。現象学も内在としての主観性に徹底的に依拠するという点では実存という理念と共通した点を持っているが、それは倫理的に究極的な事柄を扱うとは限らない。実際にフッサールの哲学は基本的に認識論なのであって、彼が実存主義の哲学者として扱われることは少ない。実存という理念、考え方は、人類始まって以来の根本的な関心に対する思考の歴史の中で生じた、一つの前提である。
実存するということは常に個別的な主観性、内面性に基づく
次に、実存とは主観的在り方であるという側面について。上に述べたような究極的な事柄に関しては、元来、その答えを客観的に証明するという仕方で対応されてきた。例えば、心の不死性を証明することによって、あるいは、神の存在を証明することによって。しかし、例え学者が神の存在証明したと主張したところで、その学者も結局は他人であって、その証明が自分自身の主観によっても納得できるものでなければ意味が無い。逆に、神をまともに信じる人がほとんどいなくなった現代においても、本当に宗教を信仰している人というのは事実存在するのであって、その宗教によって当人が幸福であるなら、その信仰は現代においても十分な真理性を持っているといえる。実存という考え方、前提はこうした個々人の主観的在り方を重視するものであり、キルケゴールもまさにこのような神に対する問題から出発したのであった。(2)ニーチェはこうした神の観念や、現代の我々においても客観的と思われるような善悪の基準も、元々はある特定の人々の主観的な発想であったことを明らかにした。(3)20世紀に入ると現象学によって、実存論は認識論的な基礎を得る。現象学は従来の主観を客観の一部と見る見方から客観を主観の一部と見る見方への転換を起こし、主観性としての超越論的意識を基礎に置くからである。(4)ハイデガーやサルトル、レヴィナスらは全員、現象学の徒であったが、それは実存をより厳密に規定するための方法論でもあった。精神分析においては、実存の主体的選択は、大他者との関係において表れる。前エディプス的主体が去勢の段階に至るまでは、大他者との要請の関係である欲動が完全に満足されてはいけないのであって、欲動の発展は常に大他者の欠如と向き合う主体の内面性に基づく主体的行為によって進められる。
まとめ
人生の重要事から自然の世界の成り立ちまで全てを説明していた宗教的な原理は、近代以降の合理主義によってどうやら確かでないことが明らかになり、今やこうした問題については個人個人が自ら答えを見いだしていかなければならなくなった。そこに自由があり、自由があるために責任と不安がある。死、責任、不安と、実存哲学で重要とされる概念にネガティブなイメージのものが多いのは、近代まで人を支えていた宗教的な世界観を手放さざるを得なかった事情に由来する。
最初にあらゆる人が実存していると述べたが、実存や実存主義という概念は狭義に用いられる場合、こうした死や不安といったネガティブな事柄に自分で積極的に向き合うという姿勢を意味することが多い。
(1)サルトル『存在と無Ⅲ』ちくま学芸文庫pp.343~
(2)キルケゴールは信仰を客観的な形で行おうとする試みは結局懐疑主義に陥らざるを得ないと論じた。この点については『哲学的断への結びとしての非学問的あとがき』第一部(白水社版キルケゴール著作集7所収)の議論が分かりやすい。
(3)よいーわるいとは区別され、ルサンチマン道徳と呼ばれる善悪の価値観の成立については、『道徳の系譜』第一論文(ちくま学芸文庫版ニーチェ全集11所収)において直接論じられている。
(4)ここでは分かりやすくするため、現象学は客観を主観の一部と見ると述べたが、厳密な意味での客観性は現象学では扱われない。ここでいう客観性とは普段私達が客観的と見なしているものであって、それらは間主観的に構成され、妥当性を維持し続ける真理を意味する。
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