実存分析とは、その名にも表れているように実存哲学によって得られた前提に基づいた心理療法であるが、21世紀現在においてはこの実存哲学そのものを定義し、問題にするのは難しくなっている。その主な原因は二つあると考えられる。
個々の哲学者に関する研究の発展
一つ目の理由は、かつて実存哲学、あるいは実存主義と呼称されていた個々の哲学者が、実存哲学という枠組みで解釈されることが少なくなったという事情である。このような傾向の強い哲学者として、ハイデガーとニーチェを挙げることができる。両者ともかつては実存主義哲学の代表的な哲学者として見なされていたが、後にハイデガー本人はサルトルを直接批判して、自分の思想は実存主義には含まれないと表明し、ニーチェは20世紀中盤以降はドゥルーズやフーコーの影響もあって、むしろポストモダンの枠組みで論じられることの方が多くなった。特にハイデガーに関しては、当人が実存主義を否定しているだけあって、彼を実存主義という枠組みに納めることは解釈の幅を狭め、その哲学の学問的意義を不当に扱うことだと警戒する風向きが強い。
構造主義の台頭
二つ目の理由は、構造主義の台頭によって、実存主義が時代遅れのものになったという認識である。この認識によって、実存哲学はその意味が否定され、乗り越えられたものと見なされるようになってしまった。こうした事態を象徴する出来事が構造主義哲学の代表者レヴィストロースと実存主義哲学の代表者サルトルとの論争である。一般的にはこの論争はレヴィストロースの勝利で終わったと認識されていて、戦後絶大な影響力を持っていた実存主義とサルトルはその勢いを失っていった。
こうした傾向に対して筆者がどう考えているかも述べておこうと思う。
現代哲学における実存哲学
まず、実存主義に変わって構造主義が台頭したという事実は、実存主義が間違っていたということを意味しない。レヴィストロースのサルトルに対する批判は、『弁証法的理性批判』という一つの書物の歴史意識という部分的な問題に対して為されたものであって、実存という理念に対しての批判ではなかった。それ以降のポストモダンの哲学者の著書を読んでも、実存哲学によって得られた前提と問題意識が引き継がれていることが分かるだろう。
筆者は現代思想による実存哲学の引き継ぎは、現象学と精神分析という二つの系譜によってなされたと見ている。現象学の系譜にはレヴィナスーデリダが対応し、精神分析の系譜にはラカンードゥルーズが対応する。レヴィナスはハイデガーから世界内存在を中心とした基本的枠組みを引き継ぎ、デリダの哲学はレヴィナスの批判を主な成立契機としている。ラカン派精神分析は、サルトルにおける脱自的主体を無意識の主体として引き継ぎ、ドゥルーズの『意味の論理学』や『アンチ・エディプス』はこのラカン派精神分析との密接な関連のもと成り立っている。
従って、実存するという事態が問題にされなくなったのは名目上、表面的な話だけであって、その問題は実質的には引き継がれ、発展的に解消されたのであるということができる。
臨床心理学にとっての実存哲学
次に、実存哲学という枠組みが用いられなくなった現在でも、その枠組みを問い直すということにはある重要性がある。確かに、個々の哲学者、さらには個々の哲学書を実存哲学という名で一まとめにしてしまうことは、それぞれの持つオリジナリティを損ない、その枠組みから逃れる側面を捨象してしまうことになる。これは実存哲学に限らず、内容による思想の分類全てに伴う暴力である。しかし、哲学という分野の外、実際に悩んでいる人を援助するという実践的な目的を持った臨床心理学などの学問にとっては、そうしたオリジナリティは直接意味のあるものではない。そうした実践的な目的にとっては、哲学から有効な観点を受け取るということだけが重要なのであって、その目的からの抽象、捨象はむしろ積極的に為されなければならない。しかし、臨床心理学が哲学から何を受け取るか、そうした抽象の仕方に関しては、多様な解釈を開発する哲学と、実践に関わる臨床心理学の両方の協力がなければならない。
個々の哲学者に関する研究の発展
一つ目の理由は、かつて実存哲学、あるいは実存主義と呼称されていた個々の哲学者が、実存哲学という枠組みで解釈されることが少なくなったという事情である。このような傾向の強い哲学者として、ハイデガーとニーチェを挙げることができる。両者ともかつては実存主義哲学の代表的な哲学者として見なされていたが、後にハイデガー本人はサルトルを直接批判して、自分の思想は実存主義には含まれないと表明し、ニーチェは20世紀中盤以降はドゥルーズやフーコーの影響もあって、むしろポストモダンの枠組みで論じられることの方が多くなった。特にハイデガーに関しては、当人が実存主義を否定しているだけあって、彼を実存主義という枠組みに納めることは解釈の幅を狭め、その哲学の学問的意義を不当に扱うことだと警戒する風向きが強い。
構造主義の台頭
二つ目の理由は、構造主義の台頭によって、実存主義が時代遅れのものになったという認識である。この認識によって、実存哲学はその意味が否定され、乗り越えられたものと見なされるようになってしまった。こうした事態を象徴する出来事が構造主義哲学の代表者レヴィストロースと実存主義哲学の代表者サルトルとの論争である。一般的にはこの論争はレヴィストロースの勝利で終わったと認識されていて、戦後絶大な影響力を持っていた実存主義とサルトルはその勢いを失っていった。
こうした傾向に対して筆者がどう考えているかも述べておこうと思う。
現代哲学における実存哲学
まず、実存主義に変わって構造主義が台頭したという事実は、実存主義が間違っていたということを意味しない。レヴィストロースのサルトルに対する批判は、『弁証法的理性批判』という一つの書物の歴史意識という部分的な問題に対して為されたものであって、実存という理念に対しての批判ではなかった。それ以降のポストモダンの哲学者の著書を読んでも、実存哲学によって得られた前提と問題意識が引き継がれていることが分かるだろう。
筆者は現代思想による実存哲学の引き継ぎは、現象学と精神分析という二つの系譜によってなされたと見ている。現象学の系譜にはレヴィナスーデリダが対応し、精神分析の系譜にはラカンードゥルーズが対応する。レヴィナスはハイデガーから世界内存在を中心とした基本的枠組みを引き継ぎ、デリダの哲学はレヴィナスの批判を主な成立契機としている。ラカン派精神分析は、サルトルにおける脱自的主体を無意識の主体として引き継ぎ、ドゥルーズの『意味の論理学』や『アンチ・エディプス』はこのラカン派精神分析との密接な関連のもと成り立っている。
従って、実存するという事態が問題にされなくなったのは名目上、表面的な話だけであって、その問題は実質的には引き継がれ、発展的に解消されたのであるということができる。
臨床心理学にとっての実存哲学
次に、実存哲学という枠組みが用いられなくなった現在でも、その枠組みを問い直すということにはある重要性がある。確かに、個々の哲学者、さらには個々の哲学書を実存哲学という名で一まとめにしてしまうことは、それぞれの持つオリジナリティを損ない、その枠組みから逃れる側面を捨象してしまうことになる。これは実存哲学に限らず、内容による思想の分類全てに伴う暴力である。しかし、哲学という分野の外、実際に悩んでいる人を援助するという実践的な目的を持った臨床心理学などの学問にとっては、そうしたオリジナリティは直接意味のあるものではない。そうした実践的な目的にとっては、哲学から有効な観点を受け取るということだけが重要なのであって、その目的からの抽象、捨象はむしろ積極的に為されなければならない。しかし、臨床心理学が哲学から何を受け取るか、そうした抽象の仕方に関しては、多様な解釈を開発する哲学と、実践に関わる臨床心理学の両方の協力がなければならない。
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